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Player


 スコールは何に何処まで気付いていたのか。ゲーム中、彼は何も語らない。ゲーム開始時、煩瑣いぐらいに内面の心情をプレイヤにだけは見せていた少年は、いつしか仲間に本心を口に出すようになるのと反比例して、プレイヤに内面を見せなくなった。モノローグが吹き出しで提出されることはなくなった。後半も後半の彼の本心を推し量れる箇所は、母親に似ていると言われたとき黙認したこと、そして誰も知るはずのないアルティミシア城の場所を仲間に告げたことのみである(いや、リノアが魔女と気付いたトコとかは微妙じゃが、スコールの、そしてプレイヤの接続とは関係ないところとも言えるしな…)。
「おい! どこへ行けばいいんだ!!」
「イデアの家へ!」
 この台詞は、ゲームの主人公としては非常に特異だ。こんな台詞、シナリオはスコールにわざわざ言わせる必要などなく、気付いたらイデアの家に辿り着くようにしても良かったはずである。むしろそのほうが不自然さがない。何故ならアルティミシア城の場所なんて、(プレイヤが異世界の人間であるということとは関係なく)プレイヤ(そしてスコール以外)は知らない。だがシナリオは確かに、「主人公に」この台詞を言わせてしまったのだ。主人公は通常、プレイヤと同様にその世界の情報を与えられる側であるのがゲームの原則であって、プレイヤに情報を与える立場であってはならない。何故なら、プレイヤは主人公の目を通してゲーム世界を受け入れてゆくのだから。目が語ってしまっては、物語に自分が入り込んでいるのだという、ゲームというメディアに濃く現れる物語との一体感が消えてしまう。
 だがその原則を無視し、スコールはプレイヤとは別のところで自分で考え、次に行くべき場所を特定したのである。この時点で完全に、ゲーム主人公=プレイヤという、一般のRPGのようなプレイヤと主人公の関係は崩れているのである。だがそれでも、ゲームを楽しむプレイヤの存在なくしてスコールは物語を進める。ラグナがスコールの接続なしに、勝手に物語を進めて時を経たように。もはやプレイヤさえ無視して、スコールは自分の意志で自らの物語の主人公になった。では物語るための装置であるゲームの中で、プレイヤは何の物語の主人公となり得たのか。
 プレイヤにまで見せまいとした、彼の本心が何処にあったのか。他人であるわたしたちは推測するばかりである。或いはこの形こそが、プレイヤとゲーム内主人公の新たなる物語共同製作となるのかもしれない。スコールと、スコールにとってのゲーム内主人公であったラグナとの、関係がそうであったように。彼は少なくとも、ラグナが父だということは、ラグナを操ることによって確信を得ていたのだから。
 ゲームがプレイヤの介在を必要としなくなったとき、ゲームはゲームというメディアである必要性を失うものだというわたしの持論は変わらない。だがそれと矛盾することなく、FF8というゲームはもうひとつの可能性を示した。スコールがスコールとしてラグナの過去を考え(スコールがレインに似ているだのとポリゴンではわからぬし、その後プレイヤにその事実が示されるのは、すでにスコールが両親のことを知っていると知れるときである。つまりプレイヤが主人公の代わりとして両親のことを知ったわけではない)、ラグナを物語った(父と確信するに至った)ように、プレイヤが主人公としてではなくプレイヤ自身として考え(れば、アルティミシア城の場所もわかる)るということである。つまり、主人公がプレイヤを必要とするのではなく、プレイヤが主人公を必要としても、物語れるゲームはあるのだということである(この点FF8って、MOONよりガンパレードマーチと比較したいなぁと思う。FF8はプレイヤがゲームをやめたとしても勝手に話が進むということがラグナ編によって証明されている。完全に輪が閉じてしまうことを、ゲーム中でプレイヤが止めることは不可能なのだ。だからプレイヤはここでも自分で物語らざるを得なくなる、もし彼等を輪から出してやりたいと思うのならば)。
 そう、スコールは初めからプレイヤなど必要としていなかった。過去の存在であるラグナが妖精さんの接続を必要としていなかったように(ラグナが世界を救う瞬間に不自然にもスコールを接続させなかったことは非常に恣意的だ)。ラグナというゲーム主人公を必要としていたのは、むしろスコール(エルオーネ)のほうである。ラグナというゲームキャラを用いて過去を知りたがったのは、プレイヤの暗喩であるスコールのほうである。そのためにはスコールは、ラグナの意志に沿わないことまでしてのけたのだ。ウィンヒルで特定の道に進もうとすると、ラグナがその動きは自分の意志ではなく妖精さんの仕業だと言うくだりがある。ゲーム主人公(ラグナ)は、下位層のここでもプレイヤ(スコール)とは別個の存在である。通常RPGでは、主人公とプレイヤの意向(例えば世界を救うといったような)が一致するからこそ、プレイヤ=主人公となり得、プレイヤに物語っているかのような錯覚を起こさせる。だがこのゲームは徹底して主人公とプレイヤが、基本的に意向の合わないよう設定されている。
 その良い証拠が、SeeDというシステムだ。依頼主を持つ傭兵である彼等SeeDは本来、通常のRPGの主人公のように、他人と話しまくって(顔を憶えられて)情報を集めるといったようなことをしてはならない。実際そんなことをしなくともゲームのストーリィは進むようにできているし、そんなSeeDらしさを捨ててプレイヤが好き勝手にゲーム世界と関わったりすると、スコールは無能としてたちまち減俸、SeeDランクを落とされる。むしろプレイヤは、主人公にとって邪魔な存在とさえ言えるシステムなのである。
 だがそれでもプレイヤはスコールの意向を無視してスコールを操り続ける。スコールがラグナを操ったように。それはエルオーネがスコールを過去に接続させたのと全く同じ理由からである。つまり、スコールがではなく、プレイヤがゲーム世界を知りたいが故に、ゲーム世界に関わってゆくのだ。スコールの身体を借りてはいても、主人公としてではなく、プレイヤはあくまでもプレイヤとしてゲーム世界に関わってゆく。プレイヤは、スコールの意志とは全く別のところで、自らの意志でこのゲームの主人公であるのだ。
 このゲームは、本当に小さなゲームだった。雄大な長い歴史のストーリィを、主人公の外へ外へと意図的に追い出したゲームだった。スコールにとっては、リノアを救うというただ一点に過ぎない物語だった。通常のRPGに存在するような世界英雄物語は、スコールのスコールとしての物語の外にしか存在しない。そんな壮大な物語は、プレイヤがスコールに自覚的に介入しなくては存在しない。裏に流れる数々の複線は、主人公に主人公の意に染まぬ行動を取らせ、主人公以外の言動からプレイヤが推し量るしかなく、蓋然的な推測の域に留まり、確証を得るには至らない。
 だからこそ、妖精さんである我々はスコールを用い、物語を自ら構築する。することが可能なのである。主人公スコールとしてではなく、プレイヤがプレイヤのままで、「物語るための機構としてのゲーム」として成り立っている。
 プレイヤが求める雄大なストーリィは、主人公にとって必要なものではなかったから表立って描かれることはなかったが、プレイヤのためにはスクウェアは確かに用意していた。プレイヤにプレイヤであれ、と言っているかのように聞こえるこのゲームの作りは、物語らせることを目的とした容易に物語らせることの可能な感動いっぱいのゲームより、個々人の想像力が試される分だけプレイヤに厳しく、そして物語ることを強要せず権利に留めている分だけ、プレイヤに優しい。スコールの物語が(個人的に好きかどうかは別として)プレイヤにとってちっとも雄大なストーリィでなかったのは、その権利を行使するために支払う義務である。壮大なストーリィは、スコールのためにはプレイヤは求めてはならなかったのだ。壮大なストーリィをプレイヤが求めるならば、自己の責任に於てプレイヤが紡いでゆくべきなのである。
 何故FF8が好きなのかと考えたことがある。自分でも不思議だった。ストーリィもシステムもキャラも、そこそこに好みではある。だがどっかーんと来るほどのものではない。システムとしては先日やったテイルズオブエターニアなんかのがわたしには好みだし、キャラだったらエアリス様が1番だし。ストーリィだったらはっきり言ってゲームより、制限の少ない(容量的な問題でね)小説や漫画を選択するし。
 だがそれでも、それらよりFF8を優先させたのはきっと、制作者がプレイヤを大事にしていたからだと思う。物語ることを義務でなく権利にしたことで、プレイヤに物語ることの責任を持たせてくれているのだ。プレイヤを信用してくれているのだ。すべての矛盾と謎に答えを提示しないままで、プレイヤに本当の意味で自由度を持たせてくれたゲームだと思ったからだ(全く逆のがガンパレだと思う。あのゲーム、ゲームとして自由度が高く大好きだったからこそ、わたしにはゲーム外――柴村の謎を解いてみよ、というゲームの本筋、Sランククリアからは離れてるアレ――が怖くて仕方なかった。無論そちらのが好みのプレイヤは多く居るのだろうが、少なくともわたしはこういう人間なのだ。どちらが優れているとかそういう問題ではないだろう。まぁ世間での評判記はガンパレのがよさげに見えるが、もし発売元が逆だったらガンパレが絶賛などされていない自信はあるね。バグだらけだし、何よりもプレイヤに与えられる、或いは押しつけるものが多すぎる。元々そういうのが好きなプレイヤが買ったんだから――だってゲームなんて普段やらないような、ゲームで語ることに慣れてない人達が買えるような市場がなかったもの――賞賛されて当然かと。逆にFF8があそこまで曖昧にできたのは、そして曖昧にせざるを得なかったのは、市場の大きさ故にだろう。やだね、ゲームをゲーム内でだけで語れないなんてさ、仕方無いけど。ゲームはアートじゃないから。ということで、Xboxの記事でゲームをアートと言ったM$の社員の言葉に大笑いした自分を憶い出した。)。
 ……実はまぁキツいこと言や、ゼノギアスで懲りたんだろ〜という見方も(ゲーム外で語らないことも含めてね。ストーリィを小さく纏めるという点ではデュープリズムなんかもあるし、あながち間違ってないかも)。ゼノギアスというゲームを、以前にスクウェアは出していたのだ。そのゲーム、後半はゲームなどではなく紙芝居だった。ゼノギアスは、雄大なストーリィをストーリィとして完成させるために、ゲームとして必要なシステムをばっさり切り捨てた、非常に異色なゲームだった。FF8は逆に、(魔女というファンタジィの源泉から緻密に構築され完成された)システムを守るために(接続やジャンクションシステムもだけど、トードや蛙型モンスターがなくされてるのには、なんてマニアックなんだFF! と本ッ気で感心した。魔女≒女神と蛙は大いに関連があるもんね〜あんま知られてはナイけど。でもスクウェアは確実に知ってたよ、4だったかな、シルフの洞窟でウィッチは蛙と一緒に出てきてたもの。ウィッチもシルフだしね。売れてはいるけど、FFの本質ってマニアックさにあるとボクは思ってる。一体どれだけの人がついてけるんだろ〜と昔から疑問だったさ。まぁそんな知識必要なかった程度の容量しか詰め込めなかった時代だったけど)、敢えてメインストーリィは小さくし、大きなストーリィを切り捨てた観がある。だけどただ捨てるのは勿体無いから、巧い台詞回しで壮大なストーリィを裏に残しといたのかもね(笑)。
 と言うより、捨てていたらシステムによって守られるべき魔女のストーリィまで消えることになるもんな。システムを守ることで、表舞台に出さなくても、ストーリィもきっちり流れさしてる、かな。う〜ん、本当に無駄のないゲームだこと。システム巧く作りすぎて、シナリオが万人向けじゃない(スコールとリノアの物語が理解されにくい)ってどうよ?(笑) いや、でもアレを「一般的で大衆的」とする人も居るしなぁ。ライトユーザに受けた……のか? このゲーム。自分がプレイしたのがブームがとうに去ってからなんでイマイチ熱がわからんな。でもシステム面の簡単さから言えば余程FF7のが一般的だと思うのだが。ストーリィの普通っぽい感動という点から見ても。ううん、結局スクウェアがターゲットにしたかった客層がまたまたわからなくなってきたぞ(笑)。まぁ会社になっちゃうと、作り手だけじゃなくて売り手もいるからなぁ。だからゲームはアートではあり得ないけど、作品と商品の狭間を右往左往する運命の代物である、と。多分その悲哀が見えてしまったゲームだから、わたしはFF8が大好きなのかもしれない。なんてね。
 作り手の主張は、確かに見えるんだ。物凄く愛は感じられるんだ、キャッチコピーの通りに。だけどそれはストーリィに現れる愛情なんかじゃちっともなかった。いや、ストーリィにも溢れさせようとはしてたんだろうけど、ストーリィみたいなわかりやすいところに入れちゃったらどうなるか、しかもそれでも主張が理解されてたのか、ってことを考えると、FF7でスクウェアは限界を感じてたのかもなぁ。上でプレイヤに対する優しさとか書いたけど、わかる人だけわかってくれぃみたいな開き直りと取れなくもないし(笑)。ただ、どちらにしろ頑張ってるようには見えた。スコールがリノアを助けようと頑張ってるように、とても頑張って作られたんだろうということを感じた。「わたしは感じた」。うん。要はまぁどの客層を目的としてたかなんて、わたしにとっては割とどうでもいいことか。
 ……で、最後は自己完結。これで良いのだろう(笑)。
 物語はスコールのものでも何でもなく、「わたしだけのもの」で。
(と書いた後にFF10をプレイしたのだが、アーロンさんの「これはお前の物語だ」 とかいう台詞に大笑いした・笑)