「お帰りなさい、兄さん!」
ひどく明るいこえが閉じたままのコックピットに響いた。今迄聞いたこともないようなこえだった、否、幼い夏に母と、スザクと笑い合っていた頃のナナリーは良くあんなこえを上げていたではないか、否違う、あれはナナリーではなくロロだ、妹ではなく弟なのだ、否、弟だが弟ではないのだ、あれは贋者だ、贋者だ!
あのこえはだれがだれにいつはっしたものだった?
「ただいま、ロロ」
馴染んだ記憶は真実も虚偽も既にルルーシュの中で混沌としていて区別が付かず、贋者と知った瞬間の憎悪と同じほどの激しさでルルーシュのこころを揺らし、揺らして、その結果は異様なまでの甘ったるさだった。こえだ。自分のこえだ。
ハッチを開いて出た自分のこえ、まるで砂糖が溶けて飽和状態になったようなこえ、溶け切らなかった砂糖の粒子がザリザリと口の中で気持ち悪く不協和音を奏でるこえ。ああ気持ち悪い、これではまるで記憶が戻っていないかのようではないか、不自然だ、あまりにも不自然すぎてこれでは逆にロロが自分を疑ってしまう、やさしい兄の演技と露見してしまう。それはいけない。
「咲世子、留守中に何か変わったことは?」
すぐさま演技をゼロに切り替えた。妙な話だ、咲世子には長年ずっとルルーシュ・ランペルージとして接してきたはずなのに。
ロロにはゼロ、咲世子にはルルーシュ、そうあらねばならないはずが、何故演技は逆になる? 違和感を砂糖のように噛んだ言葉は糖分でねばついていて、気持ちが悪い。
「緊急のものは特に」
ルルーシュのかおが二つ、自分のものと、ロロの隣に並ぶものと。これもまた何と妙な風景だ、ロロの隣で優しく女らしくたおやかに佇む兄。手を揃えて内股でおしとやかに佇むルルーシュ・ランペルージ! 妙と言うよりむしろ不気味だ、気持ち悪い。
「詳細は指示されたファイルに入れてあります」
「わかった。おまえは暫くヴィレッタの許に」
「承知致しました」
ルルーシュの仮面をやっと外した咲世子に見送られて、ロロと二人で学園に向かう。隣をゆくロロの顔を見るのは避けていても、だが耳を震わせる足取りの軽さが、こえの明るさが、弾む息遣いが、否応なしにロロの機嫌を伝えてくる。浮き足立っている、とはまさに。どういうことだ、中華連邦に向かう前は、ルルーシュが記憶を取り戻したと知ってからは、ずっと俯き加減で浮かぬ細いこえで重い足取りで怯えたような表情で、困ったように自分のあとをついてきたばかりだったというのに。
記憶に釣られてかおを向ける。
まるで本当にしあわせそうな貌でロロはわらっていた。わらっていたのは、いつだった?
「兄さん、暫くはこっちに居られるんでしょう?」
おかしい、本当に何処かが妙だ。違和感に目眩がする、このえがおは果して誰のものだった、弟はこんなかおで笑っていたか? 否自分が知っているのは弟ではない、妹だ、妹はいつだってルルーシュが笑っていればわらっていたが、弟は果して。ああ気持ちが悪い。
「ああ……ナイトオブラウンズへの対抗策も打たないといけないからな」
己の言葉で憶い出す。
ナイトオブセブン、スザクが来たときのことだ。ロロが下手なことを言い出さないかと、裏切って再びブリタニアに就きはしないかと、目を離さずに居た頃のことだ。終始俯き加減で不自然に表情もこえも昏く、たまに視線が合えば怯えたようにうろたえたように視線を外していた、ブリタニアを裏切ったばかりの頃のロロ。実質はどうあれ設定的にスザクとロロは幼馴染みとして設えられているはずだ、単純莫迦のスザク一人を騙す演技もできないのかと、せせら笑いたくなったあの記憶。もっと自然に笑えと、しかし二人きりになっても言おうとして言えなかった。
ロロの自然な笑顔をなど、自分は見たことがなかった。そうだ、この何処か不自然なかなしいかおが、いつも見ていた弟のかおではないか。だとしたらこの演技で正しいのだ、これが正しいロロ・ランペルージの演技だ。……本当に?
ブラックリベリオン後、今思うと実に当り前なのだが、当時の感覚としては実に不自然に、弟の表情は消え、会話は少なくなり、兄との接触に拒否を示すようになった。実に稚拙な演技、ギアスしか能のない愚か者、潜入工作のイロハも知らぬ未熟者、ロロの監視任務はそうして始まったはずだった。しかしだからこそ実に自然に玄人ぽさも出さずに、ただ愛情を受け取るだけの、愛情を消費するだけの、無為なこどもで在れたはずだったのだ。
それだけの愛情を注いできたつもりだった。
大規模なテロ行為と戦死者に傷付いたのだろう表情をなくした弟を、心配し、大事にし、もう何者をもこの子を傷付けないように、もう何者にもこの子を奪われないようにと、ルルーシュは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという名をなくしたルルーシュ・ランペルージは、心を砕いたはずだったのだ。奪われたナナリーの代わりに、奪われたということすらも忘れて、誰よりもだれよりも大事に、大事に、恐れるように。
何という茶番! テロリストの首魁は自分で、奪われたのは妹で、奪ったのは父と親友で、与えられたのは偽の家族だった。
その贋者は実に不器用に弟役をこなしていて、そう、思い返せばナナリーのようにまともに、まともに笑顔をなど見せたことがなくて、……。
わらってはいた。笑みを浮かべてはいた。ルルーシュの前でだけは、確かにかおは笑みを形作ってはいた。しかしそれはいつも何処か哀しそうな微笑みで、何かを堪えるかのような淋しそうな笑みで、当然それはテロのせいなどではなく、戦死者のためなどではなく、だからといって偽りを演じる罪悪感などでは無論なく、ただただ哀しげに透明なのだった。強いて言葉にするならば戸惑いというのが相応しいだろうか、それは記憶の混乱による幻想などでは決してない、確かにロロはナナリーのものではない表情でルルーシュのそばに、誰よりもそばにナナリーのように、居たのだ。
だから、わからない。
今、満面の笑顔で自分を迎えているこの子は、一体だれだった?
「ランスロット一機だけでも厄介なのに、トリスタンやモルドレッドまで出てくるなんて……」
「僕がヴィンセントで戦っても良いけど……」
「そういうことはもうやめろと言っただろ。おまえには、……」
人殺しのある世界なんて似合わない。
何処の誰が、もう数も憶えていないほど大量に人を殺してきた暗殺者に、そんなことを言うというのか!
ただ口を吐く言葉だけが、あの哀しみに囚われてひたすら甘く、本音と偽りの境を溶かしてゆく。ナナリーを取り戻すために必要だった嘘、ロロを優しく騙して懐柔するために必要だった嘘、ナナリーに対するように優しくロロに接する嘘、なのに今衒いのない笑顔を目の前に、憶い出すのはロロのあの哀しげなかおばかり。
哀しませたくなくて、吐く嘘ばかり。
もう愛情など、欠片も残ってはいないからこそそれは嘘のはずなのに、そしてロロは既に哀しそうにわらってなどいないのに。記憶のない間、ずっと付き纏っていたはずの挿げ替えられたという違和感は、だが今尚、弥増すばかりでルルーシュに吐き気をもたらすのだった。