「はい。……僕の兄は、ルルーシュ・ランペルージ」
彼を憶えるための期限は一週間だった。今迄ロロが請け負ってきた任務から考えたら長すぎる準備期間、しかしこれからの任務内容を考えたら短すぎる準備期間。長期潜入捜査にも監視任務にも不慣れな自分が、もっと言ってしまえばただの一度も長期間の任務を経験したことのない自分が、今回の仕事に選ばれた理由は、だがその一週間の間に頭に叩き込まざるを得なかった監視対象の個人データから窺い知れた。
ギアス。呪われたる力、神をも殺す力、王たる者の力、人の心に干渉する能力、集合的無意識にアクセスする能力。色々と呼び沙汰されてはいるが、要は単なる超常現象を発現できるというだけのことである、とロロは理解している。それを有する当事者としてはそこまでそれを大それた力だと感じたことはないし、その力で何かを得たこともない。否、その力のお蔭で衣食住にはありつけていたのかもしれなかったが、たった今なくしたとしてもロロは構わなかった、たとえその力を失ったがために嚮団に屠られることになったとしても。どうせギアス能力者の死後の行き先は決まっている。ロロにとって未来は常に一本道であった。
だから、その監視対象がギアスを以て、世界を変えようと奮闘していたのだということを示すデータを目にしながら、疑問に首を傾げたものだった。ルルーシュ・ランペルージ。本名ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。ロロの属するギアス嚮団の頭たるブリタニア皇帝の子供である。皇子様が何を好きこのんでブリタニアに反旗を翻したのか、しかも敗戦国のナンバーズなどを率いて。モニタを流れてゆくゴシック体のデータは、彼の理由をまでは映してはくれなかった。ロロとしては興味もなかったのだが、それがルルーシュの性質であるというのならば任務上必要になるだろうと判断したまでのことである。
尤も、そこまで詳しくは知る必要のない情報ではあった。何しろ対象はその記憶を失っているからだ、ギアスのことも、ギアスで戦ったことも。記憶の一部を失って、だが万が一記憶が戻った際のために、監視役には彼のギアスに対処できる能力者が必要だったということだ。即ち同じギアス持ちであるロロだ、潜入捜査にも監視任務にも不慣れなロロが今回の長期任務に選ばれた理由はといえば、それだけだった。
否、もう少し条件を絞るならば、彼に近い年齢の人間が必要だったのか。ルルーシュ・ランペルージもといルルーシュ・ヴィ・ブリタニアには、三つ歳下の妹が居た。ナナリー・ヴィ・ブリタニア。現在は保護されて皇帝の元に居る彼女のことも彼は忘れて、ヴィ・ブリタニアという出自も忘れて、彼はロロ・ランペルージという弟を持つ、ただのルルーシュ・ランペルージとなった。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは、ギアスによって記憶を改竄されている。記憶改竄のギアスを持った能力者が嚮団に居たかどうか、末端に過ぎないロロは知りもしなかったが、V.V.がそう言う以上、V.V.の契約者の中にそのような能力者が居たのだろう。ルルーシュに施された改竄は、V.V.によると以下の三つ。ギアス及びそれに付随するゼロに関すること、己の出自に関すること、同時に家族に関すること。後者二つは同義と考えても良い、畢竟彼のブリタニア皇族との関わりが記憶から断たれたということだ。
そして失われた妹の代わりに弟という名目の監視役がギアスによって与えられた。ロロ・ランペルージ。それが今回のロロに与えられた人格の名であり、ルルーシュ・ランペルージにとって現在の弟の名だった。機密情報局への出向を命じられ、嚮団の職員に送られた先はエリア11――旧国名を日本と言う、東の島国であった。ロロにとっては初めて訪れる土地である。監視対象の把握よりもエリア11の文化を把握しておくほうが難儀そうだとぼんやり思った。
機密情報局の職員達が、公開されることのないギアスという情報を持たずして、果してどのような説明を受けてロロの存在を受け止めていたのかはロロの知るところではなかったが、少なくとも「妹と弟を挿げ替える」という異様な事態を飲み込んでいたのは確かだったし、ロロに与えられた暗殺者という表向きの職業を鵜呑みにして踏み込んでこなかったのも幸いだった。嚮団とギアスの存在は知られてはならない。もしギアスの情報に踏み込もうとする職員が居れば、ルルーシュのギアスをも知る責任者のヴィレッタ・ヌゥとやらが何とかするだろうが、何とかならなかった場合でも自分が消せば良い。そう思っていた。
当面の問題はルルーシュ・ランペルージ及びナナリー・ランペルージとエリア11の把握だろう。ランペルージ兄弟はゼロの起こしたブラック・リベリオンに巻き込まれ、別々の病院に収容されたことになっていた。昨日、ブリタニア本国から運ばれトウキョウ租界中心部の病院に収容されたルルーシュは、暫く前から入院していた記憶設定で、本人も目覚めれば怪我などしていないことが知れるであろうことから、明日には退院させる予定である。ロロのほうはと言えば、機情の息の掛かった病院にもう暫く滞在し、ルルーシュとのコンタクトを取りながら彼への対処を分散させ、且つあまり仕込めなかったエリア11の文化の勉強、及びナナリー・ランペルージのデータを叩き込む予定であった。
予定、だったのだが。
「脱走……ですか」
「目覚めてすぐ、弟は! と叫んでいたそうだから、理由は言わずもがなだな」
「まさかシーツーですか」
「……おまえな。今の話でどうしてそう思えるんだ。タクシーに乗り込んだようだ、内辺セクタの連中が尾行を続けているが、不審な動きは見せておらん」
「脱走が充分不審なのでは」
「まぁそうだが、とにかくルルーシュの目的はおまえだ」
「僕。何故でしょう」
「弟が別の病院に入院しているからに決まってるだろ。ルルーシュからしたら今迄なんで抜け出さなかったのか、自分を不審がっているかもしれんな」
「問題が出る前に殺しますか」
「……だからどうしてそうなる。とにかく着替えておけ」
首を傾げた。
「おまえ、わかっているのか? ルルーシュ・ランペルージがロロ・ランペルージに会いに、この病院に向かっている最中なんだぞ?」
呆れたように嘆息し、ヴィレッタはクリーム色の寝間着をロロに手渡した。
「監視対象、ルルーシュ・ランペルージが到着するので、患者の振りをしていなければならないことは把握しています」
「なら良い。すぐ看護師を呼んでくる、適当に包帯でも巻いてもらえ」
そう言ってヴィレッタはロロに宛がわれた病室という名目の滞在場所から出ていった。甚平に近いエリア11の病人服は初めて見る構造だったが、嚮団で着せられていた服と大差なかったので問題はないだろう。服を脱いでナイフを取り出し、身体のそこかしこに疵を付けながら、ロロは相変わらず首を傾げた。
わからないのは、ルルーシュがここに向かっている理由だった。弟が居るから。そうヴィレッタは言っていたが、まさか弟の容態がルルーシュに伝えられていないというミスでも起こったのだろうか。それともロロ・ランペルージの入院をルルーシュよりも長引かせる必要性から、重体だとでも伝えられたのだろうか。しかしルルーシュとしても手の掛かる家族など居ないほうが楽だろうに、何を考えているのだろう。
このような大人数での任務は初めてだったので、情報伝達の至らなさにロロは多少苛立った。嚮団では一意のトップダウンが徹底していたので何かを考える必要すらなかったが、ここでのロロの立場はヴィレッタと同格の客員である。機情の命令を聞いていれば済むということもなく、状況に応じて優先事項を変えなければならないのが面倒だった。
現在の責任者はヌゥ男爵だが、トウキョウセクション全体で動くときにはカルタゴ男爵、更に機情全セクションの上に立つナイトオブラウンズの枢木スザクが今回の作戦に関わり、その上には直接関与もする対象の父親ブリタニア皇帝が居り、更に別口でギアス嚮団嚮主V.V.の命もある。しかもそれらがトップダウンのみで成り立っているわけではなく、ボトムアップ或いは並列でも処理され、情報が錯綜することもしばしばだろうことは、今回のことからだけでも容易に予測できた。
更に私生活ではルルーシュ・ランペルージの命に従うことになるわけか、と包帯をそこかしこに巻き付けられながら考えた。家族の命令というものがどのようなものか、ロロにはとんと見当も付かなかったが、取り敢えず病院では機情のフォローも期待できる。退院までには慣れるだろうと楽観視して、やってきた機情職員に包帯を頼んだ。体中から血を流すロロに、職員は慌てて本物の医療スタッフを呼ぶ。大袈裟な、と思いながらも好きにさせておいた。
消毒を終え、包帯を巻かれて本物の怪我人宜しく病人服を着せかけられ、用意されたベッドに横たわるとそれらしく点滴を与えられる。ルルーシュの到着は間もなくのことだった。タクシーを拾っていた、とはそういえばヴィレッタが言っていたが、まさか病人服で? これで不審ではないと機情が報告を上げていたのならば、エリア11はそういうところなのかもしれない。似たような袷の服を着ている人間も居たことだし。
「ロロ!」
飛び込んできた男はデータ通りの風貌で、しかしデータよりも大分くたびれた格好で、息を切らせて抱き付こうとし、だがロロの全身に巻かれた包帯を見て躊躇ったのか、枕元に勢いよく張り出された手は行き場をなくしたように彷徨ったのち引っ込んで、ただ投げ出されたロロの手を握るに留まった。握った手に口吻けるようにして俯くと、乱れた髪の毛の隙間から旋毛が見えた。
「良かった……」
彼の手はじっとりと汗ばんでいて、不快を感じないわけでもなかったが、ここはおとなしく受け入れておくべきなのだろうとロロは判断し、するがままにさせておいた。呼び方は、なんだっけ。そう、確か「お兄様」。
「おに――」
「御免な今迄来られなくて、ずっと動けなくて、今日起きたら何故か快復していたから慌てて飛び出してきたんだ、ずっと一人にさせてすまなかったロロ、御免な……」
息を切らせていたというのに、一息でそう言うと、また息を切らして握ったロロの手に、これまた汗ばんだ額を擦り付けてくる。
シスターコンプレックスに近い兄妹愛だった、というデータはロロとて所有していたし、知識としてはそれがどんなものなのか知ってはいたが、やはり自分は何も理解していないのだと、呆然と途方に暮れた。目の前の「兄」が、一体何を言っているのかまるで理解ができない。何を謝っているのだろう、ひとときでも目を離したら姿の見えなくなる三歳児だとでも勘違いしているのだろうか、ロロという名を呼ばれた事象を見る限り、記憶改竄は成功していると思われるのだが。
「そもそもテロの最中に何で俺は離れたんだ……くそっ。すまない、本当に……おまえにこんな怪我をさせてしまうなんて……ッ」
「え、怪我はあなたに関係ないでしょう」
思わず口に出た。二人称が間違っている、しまったと思ったがもう遅い。病院への移送が彼の脳内で適当に補われているらしいことから、これも適当に処理をしてくれると助かるのだけれど、と失態から逃避したくなった。おまけに仮の怪我の責任を彼以外に求めるならば、これではルルーシュの思考がゼロに行き着いてしまうではないか、記憶を刺激しないための弟役が下手に刺激するような真似をして如何する。
「ろ、ろろ……怒ってる、か?」
案の定、ルルーシュはロロの言葉で一気に寄る辺ない表情を見せた。不審がられたというわけではなさそうだが、対象の機嫌を損ねるのも喜ばしくないことだろう。というより、
「何で、怒ってると思うんですか」
「だって、……その口調」
首を傾げた。丁寧な言葉遣い自体は、ナナリーから掛け離れているものでもないと思われるのだが。
「何かおかしいですか、お兄様」
「……ッ、先生! ナースコール! ロロが!」
ルルーシュが引き千切りそうな勢いで押したナースコールボタンでやってきたのは、当然機情の職員扮する偽の医者だった。その医者に向かって、ルルーシュは何やらロロの記憶がどうの、言葉がどうの、四歳の頃がどうのと必死に説明している。
得心した。そうか、障害を持っていた妹が健常者の弟に変わったくらいだ、妹――弟の言葉遣いも改竄されていても全く不思議はない。フレキシブルというかファジーというか、応用が利くのだろう、シャルル皇帝のギアスは相手の記憶を読むタイプではないらしいので、相手の裁量に任せて適宜記憶を組み替えているのだろうことは推測に足りた。
しかしそれにしても、ロロには平均的な弟の態度や言葉遣いなどわからない。ナナリーを真似するだけならデータを集めてゆけば何とかなると見込んでいたのに、これでは良い計画倒れだ。
「だから良くあるでしょう、事故で記憶が混乱するとか、早く検査を」
「いやまぁお兄さん、わかりましたから落ち着いてください、ええと」
何とかしろとばかりに視線を送られた。職員はロロの記憶が混乱しているどころか、初めから記憶のない贋者であることを知っている。偽りの生活に違和感を抱かせないための監視役が、本当に何てざまだろうとロロは盛大に溜息を吐いた。ルルーシュが慌てて向き直る。
「ッ、ロロ、辛いのか悪かった、寝ててくれて構わないから」
「だい、じょうぶ、だよ」
「ロロ、おまえ」
「ちょっと、混乱してる、かもしれないけど御免なさい、ちゃんと、憶えてるから」
ああ呼び掛けはどうしよう、彼の中で一体「ロロ・ランペルージ」という人間はどういう人間なのか。「お兄様」が駄目なら何だ、「お兄さん」「お兄ちゃん」「兄さん」「あんちゃん」「兄貴」「ルルにぃ」「ルル兄様」、ああもう面倒臭い。半ば自棄で博打に出た。
「――…」