Le Temps Retrouve

Novel

 失われた時ならば、咢にも山程ある、否、咢が亜紀人の失われし時を作っていると言ったほうが良いのか、少なくとも咢の意識上は、亜紀人の時間を奪っているのは咢自身であったが、とにもかくにも、咢にも人並に、失われた記憶というものは存在していた。ただの物忘れから、忘れたくて忘れた記憶、亜紀人と混濁して明澄としないまま流れた意識、様々である。いずれにしろ意識的に取り戻すことの難しいそれを、だが、いとも簡単に呼び起こすことのできるものがあった。

 匂いである。所謂プルースト効果であった。文豪マルセル・プルーストの小説『A la recherche du temps perdu』――邦訳『失われた時を求めて』に於いて、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した、その香りによって幼い頃の記憶を取り戻すという描写があるが、近年の認知学の進歩により、嗅覚によって呼び覚まさせられる記憶が、他の感覚器、視覚や聴覚等によって想起される記憶よりも、より情動的によりマルチプルに、多岐に渡って関連付けられた強い記憶であることが証明されつつある。詰まる所プルースト効果とは、匂いによって何らかの記憶が情動を伴って鮮明に想起される、その現象を指す。

 だから、というだけでもないだろうが、咢は、毎朝のように白梅が喜び勇んで選んでくる服を、苦手としていた。

 亜紀人のほうは嬉々として受け取るそれら、樹の幼い頃のものだというそれらは、袖を通すと当然のように、樹の匂いがした、野山野家の匂いがした。無論それに付随する想い出など、ここに来て間もない咢に存在しようはずもない。むしろ、ないからこそ、それが咢には堪らなかった。

 咢の記憶にある大半は、車独特のガソリン臭をまとわりつかせて檻で飼われている時間と、鉄臭い血糊をべっとりと貼り付かせて敵を殲滅していた時間である。そこから離れた今となっても、匂いに多く記憶が触発されることは、たかが二年強しか生きていない咢にしても体感済みであった。それらはそう珍しい匂いでもない。つまり未だ、咢は生まれてから飼われ続けた記憶に、事ある毎に揺り動かされていたのである。喚起されるといっても、その二つの記憶ばかりで、それは決して気持ちの好い想い出とは言えぬものであったが、しかし、かと言って咢には、他に塗り替えたい想い出の希望があるわけでもなかったのだ。

 身体一つで出奔した身、贅沢を言えようはずもなく、与えられたそれらを身に纏うが、それはかつての咢を、急速に何か別の想い出に引き摺っていくかのようで、それが咢にはいたたまれなかった。一切の衒いもなく他人のパーソナルスペースを侵して憚らない、それは樹本人そのもののようでもあった。それでいて、樹がそう簡単に他人を踏み込ませる人間ではないのもわかっている現在、咢は彼の服を着る度、二重の意味で居心地の悪さを感じている。ひとつには、自分がそれを感じ取ることで、無断で樹の過去を侵害しているのではないかという心苦しさ、もうひとつは、元来縄張り意識の強い性質の咢自身が、他人の侵略を受けていると感じることそのものの煩わしさ、と同時に、それでいて拒絶するほどでもないと考えてしまってもいる、自分の変化に対する当惑。

 いずれ樹との、急速に過ぎる距離感の肉薄に、咢は惑っているのであった。亜紀人はともかく、咢にとっては望むところのそれではない間合いの変化。もはや致命傷を与え得る距離であるそれは、野生動物にも近い咢の性に、ひどく苛立ちを植え付けていた。

 くわえて食べているものも同じ、石鹸もシャンプーも同じ、とくれば、咢には塗炭の思いである。逃げ場がない。いずれ新しい服を買えたとて変わりないだろうことは、逃げてきた際に着ていた拘束衣からも察しはついた。既に移り香に浸食されている。亜紀人の行為を止める気が咢には更々ない以上、それは致し方ないことであった。

 だから、薬と消毒薬の匂いが充満する病院に入ったときには、これで息苦しさからも解放されると、安堵して、溜息すらしたものだ。たかだか二週間という短い期間の予定であったが、少なくともその間、咢はそれに関して患わされることはなかった。夜中にそれが気になって、目が冴えて眠れないということもなかった。ない、はずだったのだが、まさか逆に樹当人の訪問から、それの存在を確認させられるとは、想像だにしていなかったのだ。

「ちーす今日も俺様バナナ食いに、ってバナナはもう好い加減食い飽きたわッ、うがー!」

「コンニチハサヨウナラ好い加減食べにこないでください」

「明日は好い加減網目模様のメロンを用意してなさい我が下僕よ」

「好い加減マスクメロンも憶えてねェのかこの阿呆めが!」

「鰐島さんお静かに願います、い、い、か、げ、ん、に!」

「やーいやーい怒られたー」

「クソバカガラスもう来んじゃねぇファーック!」

 喧嘩上等、いつもながらの莫迦騒ぎ、今日は二人きり、となれば歯止めなく、口調が激してゆくのもいつものこと。

 いつものこと、のはずで、いつものように樹が、それでもバナナに手を伸ばそうとしたときであった。

 ベッドを挟んで樹の対岸に置いてあったフルーツボックス、それを取ろうとすれば、当然ベッドを横切らねばならず、つまりは樹は、咢の身体を腕で跨いで、果物に手を伸ばしたのだった。

 鼻腔をくすぐった、久し振りのそれに眩暈がした。

 彼の服を着込むときの、あの隔靴掻痒の感覚が、ざわりと寒気を伴って背筋を撫ぜる。樹に使い慣らされたはずの布地が、しゅると音を立てて肌を滑り落ちる触感さえをも憶い出し、咢はちいさく声を上げて、後じさったが、当然そこには、白いピロケースに包まれた清潔な枕と、上げられた電動式のベッドの背とが、すぐ後ろに存在していた。音もなく枕にぶつかる薄い背。怪訝を滲ませて向けられる、樹の視線に咢は顔を覆った。

「あぎと?」

「……っう」

 表情を隠していた手は、やがて摺り落ちて、血の気を失った真白い顔を緩慢に晒し、樹の目を見開かせる。手はそのまま、顔の下半分を強く抑えて、咢は俯いていた。

「ちょ……おい、気持ち悪いのか?」

「……」

「ちょっと待ってろ、看護婦呼んでくる!」

 ゴムコーティングに鈍く光る床を、盛大に鳴らして駈けだした樹の、その足音が遠ざかると咢は、覚束無げにベッドを降りて、階段へと向かった。いつものように、これまた樹のお古である学生服の釦鈕を目一杯外すときのように、襟元を大きく広げながら屋上へと出る重い扉を開け、青空を視界のむこうに確認すると、よろめきながら精一杯空気を吸い込む。吸い込み、吐き出し、フェンスに凭れた身体は、ずるりと下がり、まるで糸の切れた操り人形のような体で、咢は空の下に座り込んだ。口許を抑える。

 亜紀人が憂慮の声色で体調を尋ねてくるが、返事も返せずに身体を曲げ、排水溝に向かって胃液を吐く。涙をこぼす。嗚咽のように嘔吐しながら、フェンスのむこうに青く広がる空を見る。金臭く空を閉じ込めた針金を握りしめて、咢は泣いた。

ページ情報

Document Path
  1. ルート
  2. 創作部屋
  3. Le Temps Retrouve(カレント)
Address
日月九曜admin@kissmoon.net