sacramental KiD

石和はこ

 枢ははこの認識する限りに於いて学年の中でも一番のいじめられっこだった。

 実に一方的な解釈だ。溜息を吐く。何しろ枢は自身が苛められていることに気が付いてもいない。

 つまり苛められているというのは、あくまでも苛めている側、或いははこのように外側から眺めている人間の観測による言語の定義であって、当の枢は級友――単に同級生と言うべきか? しかし彼女らも枢にとっては紛れもない友人なのだ――に構われているだけ、という認識なのだ。たとえそこに若干の温度差程度は感じ取っていたとしても。

「イジメって、大変でしょ」

「大変らしいね、お嬢様学校でよかった!」

「……はい?」

「だって、私なんてトロいから、普通の学校じゃ苛められてたかも」

 半ば皮肉めいて、まるで心配しているかのような形ではこが掛けた言葉、枢はこう返したものだ。

 ……呆れ果てた! まさに枢が置かれている状態ではないか。はこは返答を返すこともできずに、乾いた笑いを洩らした。枢の苛められている理由も実感できるというものである。むしろ嬉々として苛めているクラスメイトのほうが被害者に思えてきたほどだ。

 一年のときの話だ。それ以来はこは、元より友人だったこのみと共に、なぜか枢の親友というポジションに収まっている。当時のはこの感覚としては収められた、と言うべきか。呆れは憐憫にも近く、それはきっと枢にとっては他のクラスメイトの刺々しい視線よりは余程暖かかったのだろう。と、これもはこの一方的な解釈に過ぎず、いずれはこはその間違いに気付かされるのだった。

 そしてそんな枢を、はこが慈しんだのもまた、事実だった。莫迦な子ほど可愛い? 否、そんなものではない。優越感から来る優しさ、それは人の心を局地的な範囲でひどく豊かにさせるものだ。はこは満ちていた。枢という「可哀相な子」は、実にはこの「優しい人間になりたい」という願望を叶えてくれたのだから。右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい? 否! 右の頬を殴られている人を見付けたら、殴っている人を買収して殴られている人に感謝されなさい。義援金が存在するように、心の豊潤は分配されるべきだとはこは思っている。熱伝導のように、あたたかさは冷たいところに流れるべきだと思っている。しない善よりする偽善。心から信じていた。

 人々の悪意に晒されていることにすら気付けないほどひとりぼっちのこども! はこはまた、自分が枢に優しくすればするほど、枢が己の状況に気付くだろうことも承知して付き合っていた。ぬくもりを知ればそれだけ無情も感じるといった寸法だ。それはそれで構わないと思っていた、それは枢の通過儀礼になるだろうから。

 枢のこのような特殊性、端的に歪めて言えば天才性を、誰よりも早く、巻上などより余程早くから見出していたのは、このようにはこであったはずだが、しかしはこは同時にそれを当時、全く理解はしていなかったとも言える。つまり、枢は変わらなかったのだ。はこを得てもなお、枢はいつまでも独りだったし、独りであることに気付きもしなかったし、いじめられっこだったし、そして誰よりも苛められてなどいない人間だった。

「プリント届けに来ましたー!」

「ん? 今日の日直はどっちだ?」

 クラスの日直は通常一人だ。二人で来たはこと枢に担任が首を傾げている。

「皇杞さんのほうです。私は付き添い」

「あーそうか、うん……」

 担任の教師はプリントを受け取りながら何故か枢とはこを交互に見た。微妙に複雑な表情だ。何か言いたげな表情である。

「あ、そうだ!」

 しかし空気などまるで読めない枢は担任の視線など知ったことではない。奇妙に明るいこえだった。

「相原さんと曽根さんが提出してません!」

 実に誇らしげにふくらみはじめた幼い胸を張って、先生褒めて褒めてとばかりに、そう告げる。どこにも翳りなど窺えない朗らかなこえ。

 はこは本気で引っ繰り返りそうになった。ちょっと待て、それは俗に言う告げ口というものではないのか、確かに担任に取っては有難い情報かもしれないが、それがバレたときのクラスメイトの反応を予想もできないのかこの莫迦は。

 考え、すぐに己の愚に気付く。予想内だろうと予想外だろうと、実際の反応がどうであれ、枢にはまるで関係などないのだろう。

「あー……そうか、うん……」

 担任も困っている。何しろ彼女は枢の状態をはこと同じように認識している。枢が如何に何にも気付いていないからといって、むしろなればこそエスカレートする嫌がらせに、気付けないほど彼女は無能な、或いは天才な教育者ではなかった。

「えーとな……皇杞」

「はいっ」

 実に満面の笑顔だ。良いことをしたという充実感でいっぱいの笑顔だ。こどものような無邪気なえがおだ。はこは久し振りに本気で泣き出したくなった。理由ははこにも良くわからない。

「つまりな、えーと……おまえ、辛くないか?」

「……はい?」

「クラスのこととか、何か悩んでたり、しないか?」

「い、いいえ? 何も?」

 首を傾げている。ちょっと困ったように眉根を寄せている。これは理解したからでも何でもない、要するに担任が枢にとって予想外に褒めなかった、もっと言えば枢から見てとんでもなく飛躍した話を、これも枢主観でいきなりといった体で持ち出されて、ただ答えるべき内容がわからないだけだろう。そうはこは推測する。

 この教師は頭が良く、察しが良く、しかし普通の人間だった。枢が根本的に凝り固まった頑固者であり、他人を必要とはしない完結した人間であり、他人との交わりに価値を置いていない天才なのだと、そこまでは思い至らなかったのだろうと、はこはおもう。

 この頃にははこも理解していた。はこが見付けたはずの「可哀相な」孤独な子供は、自身で望むより以前に人とは違い、そして自身の理解の以前から実感として自身の独りたるを規定しており、つまり他人の評価をなど必要とはしていなかったのだ。「可哀相」なのははこのほうだった。「枢を好きな」はこのほうだった。

 はこは既にして枢の関係に淋しさを覚えていた。

 はこが枢をどのような解釈しようと、或いはどのように理解しようと、枢はただ枢でしかなかった。はこのように、枢にどう思われているか、そんなことで今のはこのように惑ったりは決してしなかった。

 いずれ自分はこの子を心から憎むことになるだろう。何となく思った。何しろ枢は他人と違うことに何一つ恐怖を抱かない孤独な人間で、他人と違うことにまるで気を遣えない愚鈍で、他人と違うことを憎むどころか誇ることすらもできない無知だったからだ。

 それはいずれ枢が巻上と出逢ってから決定的となった。巻上は枢の実質的な技術のみを評価していたが、枢が本当に異端なのはそのようなところではない。それだけの才を持ちながらもそれに何ら価値を見出さない、そんな部分だった。

 はこはわかっていた、誰よりもはこだけはわかっていた、その自負だけははこが唯一縋りつけた、枢との関係の名前だった。

 何一つヒトとの間にカタチを作らない天才少女は、そのゆびひとつでたくさんのカタチを生み出してゆき、しかし可哀相などでは決してなくともやはりはこは未だにそれを可哀相だと思ってしまう、それは確かに愛情で、どうしようもなく自分が可哀相で泣き出したくなるのだった。

皇杞枢

 空気を読め、行間を読め、雰囲気を読め、そんなことは小さな頃から厭と言うほど言われてはきたのだけれど、努力して読もうとすればするほど全く反対方向へ思考が突っ走ってしまうようだった。それはそうだ、読めて空気に対立するのならばともかく、初めから努力で読めるものならばそのように読むだけだ。読めないから努力したってスタートラインを反対方向に余計突っ走ってしまうのが雰囲気というものである。つまり枢は筋金入りの方向音痴だった。現実の道についても、人々の間の空気についても。この人はこういうことを言いたいのだろうな、あの人はああいうことをしたいのだろうな、と枢が読もうと努力して推測した結果は悉く外れて、相手の不興を買うばかり。いつしか枢は読もうとすることすらも諦め、相手の発した言葉だけを信じることに決めた。少なくともそれならば相手に社交辞令のズレ以上の損害は与えないで済むし、責任は自分には降り掛かってこない。逃避と言わば逃避、或いは前向きに対人関係を模索した結果の、それしかないとの結論だったかもしれないが。

 兎にも角にも万事に於いてそのような結果だったため、枢は誰かと深く突っ込んだ話をしたことがない。友達ってどんなものだろう、と夢想することこそあれ、それを得られたことはこれまでの決して長くはない人生でもなかったし、これからもないのだろうと何となくは感じていた。私はおかしい。私は何処かヒト族とは違うバケモノなのだ。枢はずっと己のことをそう思ってきたし、その隔絶が埋まることがあり得るのだと、希望したことこそあれども、実現を考えたことなどなかった。

 はこが自分に声を掛けるようになったのがいつなのか、枢ははっきりとは憶えていない。初めが他の人間と同じように、異質なものとして枢を扱う視線だったためかもしれない。要するに当初、枢にとってはこという人間は、結局自分とは交われないヒトなのだと諦めきっていた相手だったはずなのだがしかし、いつのまにか彼女は自分のそばに居た。枢は優しさに飢えている。自分が縋ってしまったのかもしれない、と思い反省するが、結局はこは優しいのだ、その程度でバケモノをそばにおいてくれるなどと。枢は感謝していた。まるでカミサマに対するようにはこに感謝していた。遠い場所に居る、しかし友人と呼んでも良さそうな、初めての相手。

 そんなはこが所属していたトゥール・トゥール・トゥという舌を噛みそうな団体の集会に、枢がついていったのは本当に偶然だった。エア・トレックのチームだということは聞いていたので、もしかしたら興味を持ってはいたのかもしれない。機械を相手にすることは枢にとって、人間を相手にするよりも余程簡単だったし、心に穏やかだった。ハードに近いロジックは人間の機能のような複雑さを持ってはおらず、それを読むことは枢にとって如何にも容易い。幼い頃から父親の会社の工房に出入りしていたせいもあったかもしれない。空気を読むことはできずとも、機械を扱うことはまるで空気のように容易かった。

 そこで巻上に会った。学校外での初顔合わせだ。機械を扱う枢のゆびを興味深げに見詰めていた学校のシスタが、ストームライダであったということにも驚いたが、枢はそんな専門職の人間でさえも自分と同じような、時を測る能力を有していないのだということに、ひどく驚いたのだった。この身体ははこ達と同じ血肉でできているのでは決してなく、中を開けば機械仕掛けの醜い中身が出てくるのではないかと、枢は本気で恐れたものだ。私は違う、はこ達とは違う、ヒトとは違う、こんなにも周囲から遠い私は一体何処の何者で世界の何処に立っているのだ。

 他人との距離への不安感、そんな悩みは思春期の人間としては極々普通のものだったが、他人とそのような深い部分を語ることもなかった枢にはわかろうはずもなく、ただ己の裡の正確すぎる時計の音に怯えるのだった。

「枢? 御免ね、あんな夜中に、やっぱりやめとけば良かったね」

 帰るなり服も着替えず布団を被ってしまった枢に、はこが心配げに声を掛けてくる。そうではない、そうではないのだと、だが言いたくとも、誰かに相談するといった経験値が、枢にはあまりにも足りなかった。一切なかった、と言っても良い。ただ「ごめんなさい」と呟いて益々布団の奥に入ってゆく蓑虫に、だがはこはぽんぽんと宥めるように布団を優しく叩いてくれるのだった。

 涙が溢れる。ああ本当は自分が何者であっても構わないのだ、ただ自分の遠さがこの優しいカミサマ達をいつものように傷付けてしまうかもしれない未来がどうしようもなく怖いだけなのだ。と、寂しがり屋のバケモノは更にヒトに対して、なにひとつ読むことも見せることもできなくなってゆくのだった。

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