暁鴉

Novel

 自分が物知らずなのだと思い知る瞬間はここに来てというもの厭というほどあったのだがしかし、既に知ってしまっているが故の知らない感覚というものは如何にしてももう得ることなど叶わないのだという程度のことは物知らずの咢にしてもわかっているのだ。わかってはいるのだ、が、それを承諾できるかというとそうでもなく、さァこれから寝ようかという明け方に気色悪い笑顔を満面に貼り付けて帰ってきたクソガラスを無視するくらいは許されることだろう?

「お。また起きてたのかヨ?」

 ベランダの柵ににだらしなく身体をあずけ茫と明るくなりつつある紫の空を眺めるでもなく寝惚けている咢に対しての、それが樹のいつもの「おはよう」或いは「おやすみ」。莫迦らしい阿呆らしい、誰も知らないところで誰も知らない時間に、そんな怪我こさえてそんな服汚してそんな笑顔で今日は何のトリックを習得してきたクソガラスめ。

 無言で目を閉じる。俺が起きている時間と知って俺の見ている空の向こうから、何故ひた隠しにしているはずのおまえを見せ付けるのだファッキンガラス。褒めてほしいか貶してほしいかそんな手には乗ってやらない、俺はおまえの起爆剤になってやるつもりなど毛頭ないのだ、そこまで自分を惨めな気持ちにさせるつもりはない。ないのだが、しかし。

「咢? 寝んなら布団入れよ、風邪ひくぞオイ」

 風邪でもひいて身体が弱れば、俺でも滑れなくなるだろうか亜紀人のように転べるだろうか極められないトリックでも出てくるだろうか、怪我こさえて服汚してそんな笑顔で、嗚呼またひとつ巧くなったと空に近付いたと、それを知ることが叶うだろうか。

 咢は知らない。生まれたときから彼は最強で何でもできて何にも知らないことはなくて、自分よりも長い時間智を溜め込んだはずの大人だらけの職場に於いてさえ咢をまるで無知な子供などと扱う大人など居なくて、咢は知らないということを知らない、知らないのだと言われ続けたようなものだった。ただひとりの守りたいひとすらをも守れていない自分が? 咢はそれを、自分を鼻でわらう。それは小烏丸の面々に於いても同様で、彼等は無邪気に咢に教えを請い咢を強いと言い、咢は無邪気に練習してトリックを習得して喜ぶ彼等にそんな時期のなかった自分の無知を思い知るのだ。それはどのようにして手に入るものなのだろう、既に知ってしまっているが故の知らない感覚というものは如何にしてももう得ることなど叶わないのだという程度のことは、物知らずの咢にしても想像に足りた。

 毎朝汚い格好で現れる樹に、だから咢は彼もまた同様に咢との実力差の前に努力を隠す必要もないのだと思わないでもなかったのだが、そしてそれは実際そのとおりではあるのだろうが、ベランダからずり落ちかけた身体に慌てて飛び移ってきた樹は実はただの一度も咢に教えを請うたことはない。どころかあろうことか今のように助けにきたことさえ大小合わせれば両手に余る、そそっかしいおっちょこちょい貧弱小ザメが無茶すんじゃねェよ、そんな貶し言葉と共に雛鳥に対するように世話焼きなのは亜紀人に対しても咢に対しても同様だった。亜紀人に頼まれた約束事はいつまで有効だというのだ、莫迦かテメェ自分の世話すら満足に焼けてねェようなガキがその細い腕で何を守れるのだと、だが口に出してしまったらそれは自分にも跳ね返るような気がして咢には言えない。亜紀人を守りたいという、それは確かに力と同様咢が生まれる前から有していたものではあるが、それだけが唯一咢が生まれてから手に入れたものでもあった。

 強くなりたい。樹の聞こえない声はちゃんとそんな風に咢には聞こえていて、だったら皆と一緒に自分を利用すれば良いものを、このバカガラスはそれすらできない意地っ張りで、もしかしたら弱みを見せるのが怖いのかもしれないと思っている。なら見せんじゃねェよ俺にも、と言ってしまったらしかし誰が彼のこのような姿を知るというのだ、まるで最強と評されているのは咢ばかりではない、子ガラス達にとってはそれは樹も同様で、だから彼は本当に最強なのだ、だから咢の前では最強ではないのだと、そのくらいは咢とて知っているのだ、知っている、だから。

 だから言いたくはないがしょうがないから替わりに言うのだ、

「下手糞ガラス……」

「……それ寝言ですか咢さん……?」

 とっとと最強にでも空の王にでもなって空のてっぺんでもっと最強を見せてやるから、おまえは安心して強くなってとっとと俺に本気出させて努力させりゃ良いんだこの超ファッキンバカガラスが。

 と寝息を立てながら最強のはずの牙は明けゆく空の前でまるで何も守る術を持たない胎児のように丸くなって眠るのだった。

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