another grey day in the big blue world

I 咢

 檻の中で闇に泣き濡れたこども。それは彼の絶対であった。

 そのこどもが、そのこどものものではない名前で彼を呼ぶたび、彼はほの甘酸っぱい感慨に胸を奮わせ、嗚呼自分はこのこどもとは別人なのだと、それはまるで誓いの様に自らにおもう。

 自我。

 それは正しく自我の芽生えである。

「あぎと」

 亜紀人はそう彼を呼び、己が右目をつぶして彼の居場所をつくり、どうしたら彼がそれに感謝せずにいられるというのだろう。彼は感謝した。自らを生み出した親に、ただひとり存在を認めてくれた友に、それは彼にとって常に亜紀人であった。彼の世界が亜紀人であった。

 たとえ彼が亜紀人にとっての世界ではなかったとしても。

 あたかも翼そのものであるかのような男であった。空高くに向かって落ちるかようにまっすく翔ぶ男であった。亜紀人の選んだ世界はそんな広々と青い世界で、彼がそれに何と言えよう。彼はただ亜紀人が幸せであればそれだけで良かったのだ、それを、その世界を、

「僕達を檻から連れ出してくれる鳥」

 亜紀人はそう称した。ぼくたち、そんな言葉は必要ないものを! 亜紀人だけで良いのだ、亜紀人が外に出さえすれば、あの亜紀人の傷みを細くこよって編み上げたかのような檻から出られさえすれば、自分は喜んで消えるものを。

 ほんの少し、ほんの少しだけ亜紀人の傷みを和らげる、そんなことしか自分にはできなかったかもしれないが、亜紀人に身体を、時間を、返すことぐらいはできるのだ、と彼は誓う。

「相手さえ良ければ、って思考は、自分さえ良ければ、って思考と同じだよ、咢」

 亜紀人の言葉はまさにそのとおりで、だからこそ彼は亜紀人の幸せを看取って、彼にとっても幸せなまま消えるのだ、と亜紀人には言えぬまま、彼は

「カラス、亜紀人のことは頼んだぜ」

と、ただ空に祈るのであった。

 空は頷くでもなく、ただ広く高く、鳥は風に乗り咢の髪を揺らした。

II 樹

 もう随分と長いこと、難しいことは考えないようにしていた、だから目の前に居るふたりの人物のことも、そう大して区別していたわけでもないし、逆に無理に同一人物だと思おうとしていたわけではない。

 二重人格などと。樹には難しいところはわからないし、考えたくもないし、自分がどう思おうとも亜紀人と咢はそのように存在しているものなのだと理解もしている。

 人格の中に幾つもの面を持つなどと、その程度ならば誰でもそうだろうし、別の人格だと言っても人間同士、他人とそこまでの差異が生じるとも思ってはいない。要は樹にとっては、目の前の彼が亜紀人だろうが咢だろうが名前などどうでも良く、ただ自分らしく振る舞っていればそれで良かったし、それを許してくれていたのはやはり亜紀人だろうが咢だろうが変わりなかったので、特に問題は出なかったと思ってもいる。詰まるところ、樹は彼だか彼等だかの自分に対する信頼を、疑ったこともなかったのだ。それは翻って、樹の彼だか彼等だかに対する信頼と言って良い。

 所謂二重人格とやらに出逢ったのは初めてであったし、樹はサリーやビリー・ミリガンの名さえも知りはしなかったが、何の基礎知識を持たずとも、そう大した問題とは感じなかった。彼が本当に二人なのだとしても、実は一人なのだったとしても、樹にとってはどうでも良いことだ。樹は等しく亜紀人と咢に愛情を注いでいたし、等しく亜紀人と咢に無関心であった。そういう意味では二人を全く区別していないと言えそうでもあるが、このお子様には、まだそこまで区別を付けたがるほどの特別は居ない、友人連中皆に等しく好奇の目を向けている。女神と呼ぶ、もしかしたらただひとり特別と言えそうな愛らしい渡り鳥に対する愛情は、樹の中で高々と広がる大空に対する憧憬と区別が付かない。

 その程度のことだった。だから樹は、誰かと誰かを区別する必要もなかったし、自分と他人とをすら見分ける必要はなかったし、ましてや自分が誰かに特別を向けられていることに気付く必要もなかった。樹にとっての大空は、まさに渡り鳥よろしく誰のものにもならないもので、あまねく人々の上に等しく輝いているものであったが、だからこそ、まさか自分がたったひとつの空に喩えられ、切なくも眩しそうに視線を向けられることがあるなどと、想像したこともなかったのだ。

 亜紀人が言う、「イッキ君だいすき」、それを聞いて拗ねるように林檎が膨れる、その意味をも、何もわかってなどいなかった。向けられる好意は確かに心地好く樹を甘やかしたが、それに対しては自分がシムカにされたように、包み込むように笑顔を返せば良いと思っている。時折それに返される誰かの泣きそうな笑顔には若干引っ掛かることこそあったが、腹が減れば忘れ果ててしまう、その程度の興味であった。

 だから、彼、を見たときには、まるで理解ができなかったのだ。たったひとりが居れば良い、と言うその見知ったはずの彼、の言葉は、まるで奇異に聞こえたものであった。

 咢は、亜紀人だけで良い、と、そう樹に言い切った。

 彼、と同じ躰に棲まうはずの、亜紀人に対する咢の感情が何なのか、何と名前を付けて良い感情なのか、樹はその権利もあろうはずないものを、つい考えてしまった。考えてしまったこと、それ自体が理解への切っ掛けになることにも気付かずに。

 咢の亜紀人に向ける感情。家族に対する思慕とも違うような気がした。恋心とも異なるような気がした。執着の色すらも、していないような気がした。それは映る樹の目にあまりにも透明だった。ただ、まるで亜紀人しか知らないといった風に、恐らく彼自身には見ることもできないのだろう亜紀人の存在を主張する咢に、ちりりとうなじを焼かれるような熱い焦燥を感じた。

 ――焦燥?

 何かを憶い出しかけた。これは何だ。

 もう随分と長いこと、難しいことは考えないようにしていた、だから目の前に居るふたりの人物のことも、そう大して区別していたわけでもないし、逆に無理に同一人物だと思おうとしていたわけではない。二重人格などと。樹には難しいところはわからないし、考えたくもないし、自分がどう思おうとも亜紀人と咢はそのように存在しているものなのだと理解もしている。

 そうしてそのように存在していた。

 ただ亜紀人のために生き、ただ亜紀人のために消えようとする、咢に樹は初めて彼、を見たと言っても良い。彼。亜紀人か? 咢か? 難しいことなど考えたくはなかったのに、そんなもの憶い出したくもなかったのに、彼という透明は、樹に何か、樹が考えまいとしていたもの、忘れようとしていたもの、を、まるで大空の対極に憶い出させるような気がした。

 何故、自分は空を求めるのか。

 井蛙不可以語於海者而知空深。

 そう言った亜紀人は、だからこそ空を求めていたようだったけれど、樹は空を翔ぶよりももっと、ただ空を駆ける風になりたいと思っており、それが血溜まりの中で亜紀人の存在を叫んでいた翔べぬ彼、の悲痛なこえにひどく近いような気がした。

(おかあさん、おとうさん、どこいっちゃうの)

 違う、もっと昔、両親が自分から離れるよりも更に更に昔の、

(ふぇええ……ん)

 ああそうか、と腑に落ちた、途端に涙が零れた。咢が目を剥く、そのまあるく見開かれた片目は、血を陽の光に透かしたような琥珀色にまばゆい。

「……なに泣いてやがんだクソガラス」

「煩瑣ェよこのクソガキ、俺様の勝手だ」

「ファック死ね、むしろ俺が刻んでやる」

「黙れこのバカ子ザメ、他人に刻むくれえならテメェが生きろ」

「……訳わかんねーぞ、ファッキンガラス」

「このクソバカ……」

「ああもうチキショウ」

 何なんだバカガラス、と困り果てた様子を見せながらも咢は、縋りついた樹の身体を引き剥がそうとはしなかった、その理由は樹が抱きついてくる亜紀人の細い腕を振り払えないのと同じ理由かもしれないと思い至り、樹は更に涙を流すのだった。

 生きたいと、生まれ出でて初めて上げた赤ん坊の産声。

 主張したかったのは、自分のいのち。たったひとつの道。生まれたばかりの樹が張り上げたはずの泣き声を、今上げている幼子に、擦り寄ってやがて来たる空の王は一点の曇りもないはずの空を啼いた。

III 亜紀人

 血の海で残虐に微笑むこどもはそんな真っ赤なぬくもりしか知らないのだと、そうしてそれは自分のせいなのだと思えばこそ、哀れむこともできずにただ愛おしむ。

 綺麗な子だと思った。自分の中に確かにあったはずの破壊衝動を一身に背負って、しかし最も壊すべき、殺したいとさえ考えたことのある相手だけは傷付けることもできずに、その相手のために闘うこども。あぎと、という名の、あきとにはない濁点は、亜紀人の意地だったかもしれない。あたたかな血糊をしろいゆびに絡めて昏く嗤うこどもは、亜紀人が最も見たくなかった己の本能の現れで、最も表出を望んでいた己の素志の現れであった。

 忘れてはならないと思う。このこどもは、確かに亜紀人の裏側で、亜紀人が逃げ出した環境への抵抗のしるしで、亜紀人が押し付けた影のあかしなのだと。

 あれは自分の醜い断片なのだ、と彼の名を呼ぶたびにごる発音に思うのだがしかし、咢はまるで当人のように亜紀人を身体を心配し、別人のように亜紀人のこころを心配し、檻の中の更に肉体の奥に閉じ込めている亜紀人に何の恨み言もなく、ただ亜紀人の受けるべき疵を替わりに受け続け、他人の、自分の、血反吐を滴らせ声を上げて、嗤う。

 綺麗な子だと思った。無言で鬱屈と微笑んでしまう自分などより、余程綺麗で純粋だと思った。

 助けて。

 叫び声は常に亜紀人の咽喉に張り付いて表に出ることはなく、いつしか声がそこに粘着いていることすら忘れられ、笑顔の下にすべてが諦められようとしていたが、あのこどもは亜紀人のそれを根刮ぎ刈り取ってゆくかのように、口汚く世界を怨嗟する。世界中のすべてに牙を剥いて爪を立てて、亜紀人が目を逸らし続けていたはずのルサンチマンを日の下に暴き出す。

 助けて。

 何もかもを忘れて人形になれれば楽だったものを、己が生み出したもうひとりの自分はあまりにもあっさりと、兄あるいは世界に対する愛情も憎悪も亜紀人の眼前に叩き付け、そうしてたったひとりだった。好い加減にしてほしい、己の中の汚い部分ならばまだ幾らでも見ようものを、どうして綺麗な部分までまざまざと見せ付けられなければならないのか。

 己の純粋なる希望をなど、見なければ、世界のすべてを諦められたかもしれないのに。

 恨みはまるで愛情と区別が付かず、彼に対しても自分に対しても。世界の何処かに救いがあるというのならば、どうか神様、あの純粋な魂を救ってほしい。あれが流れる血以外のぬくもりを知るくらいは、せめて救いを。

 檻の隙間から垣間見える青空に祈った。

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