どちらが光でどちらが影なのか、と問えば大抵の人間は亜紀人が光で咢が影だといらえを返したものであったが、そうして咢に問うてもそれは同様であったのだが、亜紀人に言わせれば、全くの逆なのだという。
咢が光だよ、僕の。
その言葉には、光と影という語に対する印象以上の何かが含まれているような気がしないでもなかったが、いずれ亜紀人の或いは咢の、半身に対する感情など樹に知ることはできない。彼等と樹はまさに別人で、しかし咢が光だというイメージは樹にしてもわからないところではなかったし、考え込むこともなく軽々と言ってのけたのだった。
そうだな、おまえをずっと守ってきたんだもんな、あいつは。
そう告げると、一瞬の驚愕ののち、ひどく嬉しそうな顔をして亜紀人は、イッキ君だいすき、と本気とも冗談ともつかぬ口説き文句をまた口にする。ばーか褒めても何にも出ねぇぞ、と笑い飛ばす樹は未だ恋を知らない。そんな少年に腕を絡めて亜紀人は言う、咢を好きでいてくれて有難う。
樹には訳がわからない。なにキショイこと言ってやがんだ、咢も中でサブイボ立ててんじゃないのか、と首を傾げる。
わからなくても良いよ、イッキ君とアギトは、と彼は笑い、いっそう腕に力を込めて、それをすぐ振り解くのだろう人物と交替しようと、だが眼帯にゆびをかけたところで止められた。
おまえだって光だろ、咢にとって。
それにまるで泣きそうな笑顔で押し黙った亜紀人を、不思議そうに眺めて樹は、やはり首を傾げるのだった。
その大きな鳥は、てっきり空色をしているものだと思っていたのだけれど、虹色なのだと気付いたのは、一体いつのことだったか。
彼は望む色に変わるのだ、しかも彼自身が望む色にではない、彼に望まれる色に、彼に望まれるどんな色にでも、変わるのだ。
彼を最強だと言ったのは誰なのか、誰かが最強だと言ったから彼は最強なのだと、ひょろひょろとド下手ながらも必死に飛ぶ鳥を見て知った。意地っ張りなのかもしれない。天の邪鬼なのかもしれない。優しい人なのかもしれない。自己主張がないだけの意志の弱い人なのかもしれない。とにもかくにも、彼は誰かに望まれるままにそこに在った。誰かの望むかたちでそこに在った、だからこそ、誰かに望まれるかたちには決してなれないまま、誰にも望まれずにそこに在った。きっと、見ている人にとって、とても色の違う人に違いあるまい。
では、自分にはどう見えているのだと、咢は思うのだ。もはや空色ではない、空のような男だなんて、思うことは失礼だと思うし、そんな大層な男でもないと充分に知っているのに、だが咢にとって変わらず彼は空だった。もっと根本的なところで、彼は咢の空なのだった。
ならば逆に訊いてみる。俺はどんな色に見えている?
失敬にも目を剥いて驚愕を見せた彼は、何やら唸って頭を抱えたあと、一日! 一日待て! と言い残して教室を出て行った。何が一日だというのだ、そんなに答えたくないならば無視すれば良いものを。
と呆れて頭の中から消し去った事柄だったのだが、次の日、土曜日にあたる次の日、朝も早くから咢を叩き起こした彼は、寝惚け眼の咢を自転車の荷台に乗せて、青空の下を走り始めたのだった。
エア・トレックはどうしやがったこのファッキンバカ! クリアになった頭で怒鳴れば、今日はエア・トレックなしで話したかったんだよ! と怒鳴り返された。自分達の間に、エア・トレックを介さないどんな交わりがあり得るというのか。虚しさを感じて思考を止めた。
やがて辿り着いたのは、砂浜の続く海岸線。夏に至らない海は常に冬の気配を残している。で、これが何だってんだ、答えによっては道にするぞ、と睨めば、どうやってする気ヨその足で、と言われて足を見る。自分は裸足。靴も履かせずに連れてきやがったのかこの莫迦は、と取り敢えず蹴ってやった。
腹の立つことに避けもせず余裕で咢の脚を受け止めた彼は、水平線を指差して言った。一日待たせたから、特別に実物見しちゃる、と笑った。え、と口を開けて指差す方向を見れば、あおとあおとの交わる場所。ほら、答え。と彼は実に晴れやかなかおで笑うのだった。
この莫迦、大莫迦、救いようのない莫迦。と心の中で罵倒するが、交われないはずの空と海の境目は、涙で滲んで今は見えないのだった。
鮫は常に血の海の中に沈んでいたので、空のいろは知れども海のいろは知らなかった、そうして想像していた。きっと赤く澱んだ色なのだと。
それを鳥ときたら、血に濡れた鮫をなかば無理矢理掬いとって空を飛び、天空から見た海は亜紀人の眸のいろをしていて、なんて綺麗、と鮫をして思わせた。
呟きは意外と大きなこえになっていたらしく、鳥はそれを聞きつけて大いに笑う、なんだおまえ、やっぱり井戸の中だったのか、大海も知らなかったのかよ。憤慨して暴れた鮫に、ああそういう意味じゃない、莫迦にしたわけじゃねえよ、たださ、空だろうと海だろうと、やっぱ大きなところで翔びてえじゃん、と鳥は笑いのまま続けるのだった。
海を飛ぶ? 鳥に抱えられたままの鮫が問えば、ホントはさ、海だろうと陸だろうと空だろうと、羽根を伸ばしさえすれば飛べると思ってるぜ、俺は、ただ俺には空が性に合ってただけで、おまえもその玉璽が空を飛べないってんなら、海でも飛んでみる?
と宣うて鳥は、とんと大海の前に降りたのだった。
打ち寄せる青いあおい海はまるで見慣れぬもので、潮騒が幼い鮫に若干の気後れをもたらしたが、その眸色に惹かれもしてこどもは、恐る恐る足を踏み出した。
何やら最近、陸上部の片割れを咢がちらちらと窺うようによく見ている。ナンデスカ咢さん初恋デスカ? などと考え樹はそんな咢をこそちょくちょくと眺めていたら、どうやら鈍いらしい咢には気付かれずとも、聡い亜紀人にはあっさりと見付かってしまい、問われれば焦ってどもりながら返答する。
ほ、ほらだってよ、なんかあの咢がだぜ? 女のこと気にしてるなんてよ、すっげー成長したっつーか、お、大人になったっつーか、やっぱりムッチン女医とナンかあったんなら問い糾さないととか、えーと。
すると亜紀人は笑いながら、別に女医さんとは何もなかったけどね、うんそうだね、アギト中山さんのこと気に入ってるみたい、あのひと可愛いよね。
と自分のほうがよっぽど可愛いかおをして、そんなことを宣うたのだった。そうしてつと真面目なかおに返ると、うん、だってそうだね、彼女はアギトのことを認めていてくれて、それでいてアギトのこと好きなわけじゃないひとだから。アギトにはとても楽な相手だと思う。
そんなことを言う。証はね、ほしいけど、強すぎてもね、慣れてないから、怖いんだよ。
そのまま腕にするりと絡まってきたほそい腕を、いつものように振り解くことができず、どうしたのイッキ君、と問われ亜紀人に、樹はもう片手で腕を指さしながら、こう返したのだった。おまえ、これ、邪険にされてぇの?
亜紀人は困ったように笑い、されたいとか、されたくないとかは、考えたくないけど、されても仕方ないものだとは、思ってる。
などと言うものだから樹は、腕を解いて、細かくふるえる身体を頭から引き寄せて、こう言う。咢も大概独りよがりだけど、おまえも好い加減自分勝手だよなぁ。と。
そうしておいてその頭を突き放して、驚いたままのちいさなかおを正面に、笑って続けるのだ。ほしいなら追え、どんだけみっともなくても無様でも、証なんて自分で刻みつけろ。
焚き付けた結果、まさかキスが来るとは、ついぞ思いもしなかったけれど。
大空といえば、大抵の人が昼の青空を思い浮かべるようだったけれど、樹にとって空は、白黄赤紫青と、グラデーションを描いて変わりゆく気紛れにまばゆい夕焼けのイメージで、それは夕暮れに駆けるシムカの飛翔を見てからのことだったかもしれないし、幼い頃から追い掛けた雨上がりの空の色だったかもしれない。
宝石のようだと思った。似た色の石はないかと、宝石店にも忍び込んだものだったけれど、ピジョン・ブランと呼ばれる石はとてもではないけれど手の届かない値段であったし、石榴石と呼ばれる石はそれなりではあったけれどそれでもやはり子供には高く、手に取る前に店員に追い出された。
のちに、石榴は人肉の、そうしてルビーは血の、イメージを持った石なのだと聞いた。
血飛沫を上げて天を走る咢を見ていると、時間帯や天気に関係なく、樹はあの空を憶い出した。空は自分にとってもしかしたら、亜紀人にとってのそれのようにそれ自体が自由のイメージなどでは決してなく、むしろ血路の象徴なのかもしれないと思わないでもない。自らの道を切り開くのに血が伴うことは、自由のために血が流れることは、本当は仕方のないことだと思ってもいるのだがしかし、そうして闘って戦った結果が、仲間という名の皆の阿鼻叫喚だったことは、樹の記憶に新しい。血は血を呼ぶ。絡みついて限りを見せないあか。むしろだからこそその連鎖が美しいのもまた真実かもしれなかったが、あれは留まるための場所ではなく、飛び立つための場所だと、もう決めてもいる。
血の中で輝くあれは、足掻いて足掻いて何かから飛び立とうとしている瞬間なのだと、樹は何より知っている。ひとの血の名を背負って輝く宝石。夕日を映してあかく金色が煌めいた。
あぎと、とひとのかたちをしたそれの名を呼び、樹も地を蹴った。
金木犀って知ってるか? ほら、秋に咲く金色の小さな花の木で香りの強い。
ああ……あれか。
金木犀ってな、日本には雄株しかねえんだってさ。雌株は渡ってこなかったんだと。
……で?
でも綺麗な花咲かせてるし良い匂いさせてるだろ。花がああいう形態取ってるのは受粉のためだってェけどさ、そういうことなんじゃねえの。
……よくわかんねえぞファック。
ひとりって名前なんだよ。
樹のあとを雛鳥のようにしてついて歩く亜紀人をして、ホモだの何だのとからかった咢曰く糞餓鬼であるところの同級生を、蹴りつけたその足で樹に対して八つ当たりした結果がこれだった。咢にはまるで訳がわからない。咢は、何故亜紀人がおまえなど好きなのだ、と自分でも腹立たしいことに理解しているはずの事柄をぶつけただけだ、それが何故、金木犀の話になるのか、果してこれが返答のつもりなのか、それすらも咢にはわからない。
樹は続けた。
俺はまぁ女の子好きだけどさ、やわらかいし、あったかいし、でもそれは、柔らかくて暖かいものが好きなのもきっと、亜紀人と変わんねえんだよ、多分。無駄かもしれない花を咲かせてるだけだ。
そうして頭を撫でられて、振りほどくこともままならないまま、おまえが亜紀人のこと好きなのも、だから誰のことも好きになんねえのも、多分同じだよ、と言われて益々混乱するのだった。
俺は亜紀人のこと好きなのか?
だって好きかどうかも考える必要なかったんだろ。
だって? って?
だから。
金木犀とおんなじなんだ、と呟いて天を仰いだ樹の視線を追えば、そこには青空に浮かぶ身体半分の月。
しろいかたわから花が薫った。
世界が遠い。
喧噪。さざめき。笑い声。同級生達の無邪気なさえずり、そんなものが不意に遠くなる瞬間が樹にはある。聴覚が奪われ視界がモノクロームに取って代わられ、自分は貧血でも起こしているのだろうかと、これだけははっきりと明晰な意識で認識する。家庭の医学などには興味のない樹のこと、実際のところはわからなかったが、無茶をする気にもなれず、そのようなときは大人しく机に突っ伏すことにしている。それでなくとも彼の居眠りは多い、誰かにそれを疑われたことなどなかった。
本当はそんなとき、無理にでも誰かと笑い合えばすぐに治まるものだと経験上わかってはいるが、今はそんな当り前のはずであることまでもが怖い。
怖い。
これほど自分に似合わぬ感情もないだろうに、と苦笑するのだがしかし、樹は確かに今、怖かった。笑いかけて、笑いかけられて、そんな穏やかなやりとりに、相手を信じてしまうことが怖かった。その原因は、追求したくなかったので考えてはいないが、その恐怖は強い罪悪感と共に、樹の眼前に今もなお横たわっている。
それにしてもここしばらくなってなかった症状なのにな、と思い返せば、最近はずっと気付けば亜紀人がまとわりついていて、或いは目を離せば消えている咢を探していて、そんな暇もなかったからだと気が付いた。今、ひとりと言うべきふたりは入院している。
閑だな、と口の中で呟いて寝返りを打つ。反対の頬に机の冷たい感触。自分のことを好きだと言っていたおんなのこのことを思い浮かべる、それはもうずっと目を逸らしてきたひとのことだった。樹のせいで傷付いたひとのことだった。あれ以来顔も合わせていない、大きな学校のこと、元々クラスも違っていたし、会わないでおこうと思えば三年くらい簡単に会わずにいられるのだ、と改めて認識した。
会える距離に居ながらも会わないのは、互いに会いたくないと思っているからだ。机に額をこすりつける。では会い続けている人達は、互いに会いたいと思っているから会えているのだろうかと、思うがやはりそれも否であった。樹はただの中学生で、イッキ帝国などと、本当は小さなちいさな集団の中でしか通用しない幻想にしか過ぎぬものだと、理解はしていてもそれでも樹は、理解していればこそ、大空を嘯かなければならないのだった。
彼女は誰かのことを信じられているだろうかと祈るような気持ちで願った空は、今もあのときと変わらず青く澄んでいる。いつか自分があの空を創るのだと誓った。
誓いの先に象徴としてふたりを据えていることすらも自覚して鳥は今日も声なく約束を啼く。
毎年十二月の二十四日には、エアトレックのパーツを贈られた。ふたりきりのクリスマス。物心ついた頃には既にそうであったから、亜紀人がそれに疑問を持つことはなかったが、包装紙もリボンも言葉すらもなく、ぽんと投げて寄越されるそれがサンタの真似なのだと気付いたのは、小学校に入って大分経ってからのことだった。
サンタクロースという夢物語さえも語って聞かせはしなかったが、海人は毎年そんなそっけない真似事を亜紀人にしてみせた。亜紀人がクリスマスという言葉さえ知らない時分から続いた慣習は、三人で過ごすようになり兄弟という関係がひどく歪んでしまってからも、滞りなく続いている。
息も絶え絶えに横たわる亜紀人の枕許に置かれたレアパーツ。購入したものだか潰した暴風族のものを奪ったのだかは亜紀人には知れないが、そんなものを残して、先程まで絡まっていたはずの身体は何処ぞへ消えた。電話を取っていたようだったから仕事か。いつものことだが、今晩は咢の必要ない案件らしい。
明かりも灯らないままの部屋に置き去りにされて、しじまのむこうに海人への罵声を鮮明に聞く。咢はいつも事前に自分に代われと悲痛なこえで亜紀人に叫ぶが、こんなことは何でもないのだ、と返すばかり。何でもない。それは心からの真実で、本当に辛いのだったら咢に、或いは他の誰かに、替わろうと思えば替われるはずなのに、自分がそれをせずにいられるのは、こんなことが恐らく本当に何でもないからだろうと亜紀人は思う。
自分に刻まれる疵ならば何でもない。一生涯残ろうとも誰に汚いと蔑まれようとも誰のことをも愛せなくなろうとも、そんなことはどうでも良いと、自分で思わずに誰が思うというのだ。
だからアギト、と呼びかけずに心の中で語りかける。兄からの愛情も世界からの憎悪も何も知らず、君は兄を憎んで世界を愛してどうか自由に生きてほしい。自分のもうひとつの可能性にそう願う。海人から贈られたパーツを握りしめて呟いた。
メリークリスマス、もうひとりのぼく。いつか君に最初で最後のプレゼントを。
昼休み、誰と喋るでもなく誰と遊ぶでもなく、教室の片隅で机に突っ伏して寝ていることの多い樹が、亜紀人の一番のお気に入りだった。
初めて逢ったとき、攻撃を仕掛けても仲間を守る手を離そうとはしなかった樹に、咢は彼が友人をそれほど大事にしているのかと解釈したようだったが、亜紀人からしてみれば全く別の見方ができた。むしろ逆なのだ、このひとりで翔べてしまう大きな鳥は、誰のことも信じていないからこそ、儚い希望からその手にふれた何かを離すことができないのではないかと。
そうして咢や海人の意図とは全く別のところで近付いた鴉の、疵はだが想像していたよりも重傷で他人に頑なで、しかも黒く濡れる身体は流れる血にさえ気付かない様子で痛みに無自覚なようだったので、亜紀人の予想は大分外れたと言って差し支えないが、その無自覚の故にいっそ、彼は亜紀人の思惑以上に咢の心を開かせもしたようだった。まるで自由に空を駆ける風のような。咢の目には樹はそう映ったに違いあるまい。
力なく机に投げ出され、いびきと共に揺れる手にふれる。ゆびを絡める。大丈夫、このひとの孤独は咢の存在をきっと理解してくれる、大丈夫。きっとふたりの願いはいつか叶う。
きっと咢はこのひとにぬくもりを知る。
大丈夫、と震えるゆびでゆびを握りしめた。ふれることもふれられることも怖くない、大丈夫。いつか自分もこのひとを好きになることがあり得るのだろうか、と想像すれば苦笑を浮かべるしかなく、からめた指にまかせて樹のとなりに転がりながら亜紀人は、くちびるに笑みの形を残したまま、咢には見えない片目で涙を零した。
月光を映して鈍く輝く重み、ベッドに寝ころんで樹は手の中に収まるそれを眺め続けた。牙の玉璽、その王の証。
結局咢は何も語りはしなかった、執拗なまでにベヒーモスと戦いたがった理由も、玉璽を取り戻そうとした理由も。てっきり王に返り咲きたいのかと、思わないでもなかったがしかし、それにしてはあっさりと玉璽を樹に渡した咢には、王なる立場に対する固執も玉璽に対する執着も些かも見られず、かと言って未来の空の王のために玉璽を取ってくれたのだなどと、思えるほど脳天気にできてもいなかった。
宇童アキラとの決着さえ付けられれば良かったのだろうか。彼とのかつての因縁でさえも、自分達は何も知らされていないのに、と玉璽を壁に投げつけたい気分にも駆られる。
咢を止めて、と亜紀人は言った。その理由さえも聞いてはいない、咢の何を、止めるのかさえ自分は聞きはしなかったのだ、とくちびるを噛む。大丈夫だろ、あいつがおまえのためになんねーことするはずねェじゃん、と嘯くと、亜紀人は目を見開いたのち微笑んだが、あれにはどういう意味があったのだろう。彼は何を信じようとしたのか。
亜紀人に言われたからというよりは気になって、キューブの壁を破壊したが、落ちてきたちいさな身体は、玉璽のため、とそう宣うて共に戦うことを承諾した。
そのために戦っているのか、と驚きもしたものだ。林檎だったか仏茶だったか、王は玉璽を手にして初めて王と認められるのだと言っていた、ならば彼はかつての牙の王であったのかと、その事実すらも樹は初めて知ったのだ。
何も知らない。
なにひとつ樹に知らせず、だれひとりとも深く交流を持とうとはせず、彼等の生きる意味も誰のこころにも残そうとはせず、まるでいつ消えても良いかのように。
ただ手渡されたこの鈍い重みだけが、彼等をこの地に繋ぎ止める証のような気がして樹は、激しい憎悪を込めるかように強くつよく、玉璽を握りしめた。
今日、ぼくは、犬と猫のふたごをひろいました。
おおきな黒い目で見上げてくるような子犬でした。するどい金の目でにらみあげてくるような子猫でした。
さみしそうななきごえにひかれてダンボール箱の中にみつけたときには、栄養不足のためか、ふたりとも片目をつぶしていました。あわててお医者さんにつれていきましたが、この目はもうだめだよと言われて、ぼくはかなしくなりました。ですが、のこった片目までもがつぶれてしまわないように、きみがしっかり食べさせてあげないとね、とお医者さんに言われましたので、しょげているひまはありません。
家にかえると、野山野家の四姉妹がぼくたちをむかえてくれました。ぼくのうでに抱えられたふたりを見て、あらあらたいへん、ひろってきたの、ごはんはおひるごはんののこりで良いかしら、とあわただしく食事やねどこの用意をしてくれましたが、ぼくの手からしかごはんを食べないのでぼくが食べさせてあげて、ぼくのうでの中でしか眠らないのでいっしょに寝てあげて、そんなふうにぼくたちの暮らしは始まりました。
ぼくにはお父さんもお母さんも兄弟もいません。ちいさいときに野山野家にあずけられました。リカ姉もミカンもリンゴもウメもぼくにやさしくしてくれますが、ぼくはいそうろうでしかないし、きれいな女の子ばかりだし、だいすきだけどやっぱり家族という気はしません。ぼくは家族を知りません。
だから、このふたりをぼくにできたはじめての家族と思うことにしました。ぼくと同じ、家族にすてられてひとりぼっち、ふたりぼっちかな? になったかれらです。きっと仲良くできると思います。ふたりはぼくがだいすきです。ぼくはふたりがだいすきです。
今日もぼくは、ふたりといっしょにごはんを食べて、ふたりといっしょのベッドで寝ます。おやすみなさい、良いゆめを。