| 生きていることのリアルと萌えの対象としてのアンリアル | Final Fantasy X-II |
| えふえふてんつー。あまりにもギャルゲーと騒がれていたので、逆にプレイしてみる気になった(※1)。 FF10プレイ中、わたしがユウナという女性に感じた、つまりユウナというキャラクタに与えられているとわたしが感じた最たる役割は、「世界を救う母性としての生贄」である。FFシリーズに於いて自己犠牲によりプレイヤの同情を引くという手法は珍しいものではない。そしてまた、主人公ティーダに対する同情の自己内面化という意味でも、究極召喚という生贄の儀式は欠かせない要素であることは、FF7〜FF9の主人公或いは準主人公に用いられた手法と同様である(※2)。巫女の衣装に近い装束も、召喚士という神降ろしの儀式を自ら担う立場も、すべて受容という属性を強く示唆しているように見える。 彼女に与えられた「母性としての生贄行為」即ち自己犠牲的「受容」という属性は、それだけで多く(性別が男性ではなくとも男性社会的概念を受け入れた性質としての)「男性性」の「萌え」としての対象となる。「萌え」とは、その人物の生き様や性格の上位に「属性」(或いは特定の「関係性」)を感じることであるとわたしは理解している。つまり、「人物」を「人物」でなく「キャラクタ」として見る、即ち記号化し内面化する行為そのものが「萌え」であり、裡に取り込んで記号化できる対象を「萌えキャラ」とここでは定義する。 ここで、ユウナというキャラクタが萌え対象として非常に適した、或いはスタッフによってそのように作られたキャラクタであるとわかるが、ならばその属性「外」のユウナの人格はどのようなものであったろう。 正直、FF10は視点がユウナのものでなかった上、ユウナの召喚士としての自己犠牲の性質、即ち最たる萌え属性が、視点元のティーダに長いこと隠匿されていなければならなかった関係上、ティーダ視点で物語を見ていたプレイヤ(わたし)には、ユウナの人間としての性格は読み切れなかった。ただ、ティーダが惹かれたという一点からのみ、ティーダと似た性質を持ち合わせていたのだろうことが予想されるだけである。 記号ではないユウナという女性。仲間のために最後には世界の生贄たることを拒んだ彼女は、それでも最後まで「誰かのため」と言い訳をできる立場、つまり他人のために自我を殺すことのできる、母性という属性を纏ったキャラクタだった。「頼まれたら断れない」、そんな、世界が女性性に求めるだろうジェンダーの最たる属性を抱えたキャラクタだった。 つまりFF10の中では、わたしは最後までユウナの中に「美しくない彼女の人間性」を見出すことができず、最後まで彼女はわたしにとってただ「美しい萌えキャラ」でしかなかった。 だが、ここで「ギャルゲー」と噂されたFF10-2の登場である。プレイしてみて大笑いした、寧ろギャルゲーの真逆をゆく作品ではないか。 そこにはFF10のときにあった、男性性にとって都合の良い母としてのユウナというキャラクタなど存在しない。発売後、露出狂とさえ言われた彼女達の格好は寧ろ封建的な象徴としての男性性が眉をひそめる類のもので、それに喜ぶ人間は、リアルで醜い部分も含めて女性を愛する、寧ろ「萌え」など理解のできない、現実に即した男性或いは女性だろう。 女のドレスアップは大半が自分のためのものである。それを「露出」と言ってしまう時点で、既に視点が男性性のものである。ユウナは男に見せるために着飾る、男から隠すために着飾る、そんなつもりでドレスアップしているのではない。それのなんと小気味好いことか、なんと小憎らしいことか。 封建社会に振り回されていた、かつてのユウナはそこには居ない。否、FF10のときからちらほら見え隠れしていた、規則から逃れにくい自分の性格を自覚した上での既成概念からの脱却、自我の真の自由を努力して求めてゆく姿勢。つまりは記号としての召喚士でない、ユウナという「人物」は、そういう人間だったということだ。自己犠牲の象徴としての大召喚士でないユウナは、そのような自我を手に入れたがっているということだ。そうでなくては、既成社会を打ち壊すために消えたティーダ達の意味がなくなる。 真にユウナがそのような自我を「あの世界で」手に入れられるかどうかは、まだプレイが終わっていないので何とも言えないが、少なくとも「プレイヤの世界」のジェンダーに対する自己犠牲からは、彼女は脱却を図れたわけである(※3)。 それに眉をひそめる姿勢は、或る意味では正しい。あの荒唐無稽なノリに引く態度は正しい。「ムカツく」とさえ感じる対象のユウナであってこそ正しい(パン咥え綾波に怒るのと似てるな)。そしてそんな彼女をこそ、歓迎すべきであるとわたしは思う。 ここにきてやっと、わたしはユウナを一個の人間として認識し、美醜含めて初めて「他人として」、つまり萌えて自分の中にキャラクタの属性を増幅させる必要なく、単純に一人格としての彼女を愛することが可能となったわけである。それだけでもわたしにとってはFF10-2が出た価値はあった。 コンサバであることが悪いことでは決してないが、世界に確立されている既存の価値観に埋もれるということは、それだけで排他的、差別的になる可能性が高まるということでもある。少数派であることは幸福と思いにくくても、多数派であることを幸福と思うことは容易く、また不幸には慣れにくくても、幸福には慣れやすいということである(※4)。 だから意志薄弱なわたしは「萌える」という行為がとても怖い。自分が誰かに「萌え」て、その人物をキャラクタとして扱ってしまうことが怖い。だからわたしは「萌えられない」FF10-2のユウナを歓迎する。 そしてまた、実際に誰かの「萌えの対象とされる」ことの辛さは、実際に味わわないとわからないものかもしれないが、ユウナがそれから解放されたのだと思えることはわたしにとって幸いである。属性に萌えられるということは、それを受ける側の生きているはずの人間からすると、「生きているな」と言われることにも等しい。 生きている以上、ユウナは女神などではあり得ない。母性の象徴などではない。生きている彼女が生きていてくれて、良かった。 |
| ※1: 2003年9月現在、ストーリィレベル2でまだクリアしていない段階で書いている。 ※2 主人公が、7はセフィロスと、8はラグナと、9はビビと、同様の作られた存在であると知れることで、プレイヤの同情の視線が途中でプレイヤ自身に跳ね返る効果を狙っている。つまり、主人公の驚愕が自分のものとなるのである。 ※3 ゼノサーガ評でも書いたが、主人公が第三者視点で「見られる」とき、そこには当然「プレイヤの視線」も存在する。 ※4 女が女キャラに萌えることがそもそも少数派ということをツッコまれたら、とても長くしかもゲームに関係ない話に突入するので、割愛。 |