| 行間は誰のもの? | ガンパレード・マーチ |
| 物語を作るという作業に於て、行間を作るという行為は非常に大切なものである(※1)。読者のために敢えて空間を残すことを、エンタテイメントを心掛けている者なら、自分が読者でもあるからこそ、意識して行っていることが多い。創作者としての自分が、多分に他人の作品の行間を埋めようとする行為から出発したことを、よく承知しているだろうからである。 このように論文調で書いていても、敢えて読みやすくはせず、読者に考える間を与えようとするのはわたしのあまり良くない癖だが(※2)、少なくとも物語に於てはその「行間」を作るという行為は、なくてはならないものである。行間を読者のために残すのは、作者のサービス精神でもあろう。 物語に限らず、人間の脳は常に整合性を求めて、穴の空いた部分を埋めようとする。このような図を補って正方形かな、と予測できるのはひとえに、脳のこの働きのせいである。直線のない世界に育った人間には、この図を見せても正方形を思い浮かべることはできず、別の形を思い浮かべるであろう。経験則に基づき、ヒトは世界を常に予測する。自分に理解できる形で補足するからこそ、初めての経験であってもヒトは、或る程度知ったかのような行動を取れるのである。物語を読むときも、人は同様の行動を取る。物語で描かれない部分を自分で補い、まだ読んでいない部分を予測し、自分の世界に引き寄せることで、物語世界に没頭できる。物語に入り込むという行為は、自分が歩み寄ると同時に、物語を自分側に引き込むという要素を多分に孕んでいる。商業作品として売るためにも、行間を残すという行為が必要とされるのは御理解頂けると思う。 この点で、世界を構築したのが創作者ではあっても、行間は読者のものである、とわたしは敢えて言う。 だが、それができない、或いはしない作者も当然居る。自分の創作物をすべて自分のものだと言わんばかりに、物語の本筋から浮いてしまった部分を番外編としてすべて埋めようとする行為をする作者も居る。そうされても、それまでに自分で補った自己流世界観を敢えて貫く読者も居るが(※3)、大半の読者は作者を優先させる。それでも物語は作者のものであるだろうからだ。そこに感じるのは、大抵は哀しみ。直線を知らない人間に、上図の隙間を埋めて正方形を見せても理解できないだろうことと同様、その物語を自分の世界に近付けることが難しくなるからである。 「柴村の謎を解いてみよ」。ガンパレードマーチで示されたこの一言は、最初ブックレットを読んだだけでは、この行間が存在することを明示しただけのものであると思った。だが実際には、公式サイトでこの謎についてプレイヤ(読者)に論じさせ、それを制作者(作者)が方向修正しながら、徐々に制作者の構築した世界観に導いてゆくというものであった(※4)。それは読者の追随を許さないほど緻密であった(理解度をレベル分けしなければならないほどに)。 ゲームと小説、どちらが受容側(プレイヤ/読者)の物語世界への能動的な関わりを必要とするかは、その人の資質によって異なるようだが、物語の量(これも受容側の素質によってはっきりとは言えないのだが…)と時間の比率を比べてみれば、一般にゲームのほうがより時間を割かれるため、そしてまた流れてしまったテクストを読み返すことが困難なため(※5)、能動的な意志を必要とすると思われる。 だが大抵のプレイヤが、決して物語に対して能動的などではなく、むしろ受動的であるが故に、小説よりゲームというメディアに流れていることも事実である。小説の行間を埋めて物語を自分に近付ける作業よりも、物語主人公として物語世界に入ることが前提として定められている(主人公不在のゲームは物語には便宜上入れない)ゲームという媒体のほうが、「物語る読者」としての自分を構築しやすいからである。 ゲームというメディアは、根底に「簡易物語作成キット」としての相を宿している。ゲームの物語にプレイヤを嵌め込むことが前提として作成されているため、物語に没頭する能力に乏しいわたしのような読者(プレイヤ)であっても、簡単に物語に入り込むことができる。自分が物語に近付こうと努力しなくとも、プレイヤと世界観(主人公)を近付けるための努力は、製作者によって為されているからである。行間をわざわざ埋めずとも、主人公となることで、プレイヤは物語の住人たり得るのである(※6)。あたかも自分が「物語った」かのような、行間を埋めるのと同じあの満足感を、何も考えずプレイするだけでも得られるのである。 だがそれでも、ゲームの物語の行間を埋めようとする行為はできる。しようとするわたしのような人間は居る。普段そのようなことを心掛けもしないプレイヤであっても、「解いてみろ」と挑戦されたらチャレンジしてみたくなる者も居るだろう。ゲームの登場人物たちに明ら様に含みのある言い方をさせることで、「謎がある」とブックレットでまで明示することで、ガンパレードマーチというゲームは、自覚的に物語ることに慣れていない読者までをも、プレイする以上に物語らせようとしたのである。 このことは2周目(セカンドマーチ)のプレイからもわかる。ゲームの登場人物たちは、色々なキャラクタを使用してゲームに介入する人物に、つまりプレイヤに、直接話し掛けてくるのである。現在プレイヤが操っている「主人公に」ではなく「プレイヤに」話し掛ける登場人物たちのお陰で、プレイヤは主人公として以上に、プレイヤ自身として物語ることを余儀なくされる。 製作者におんぶに抱っこしているだけではなく、プレイヤも読者としての責任を負え、というのは主張として納得できる。作品側に歩み寄りを求めるだけでなく、プレイヤからも歩み寄れ、というのは、読者から作者になった人間ならその快感を教えたくて、言いたくなって当然であるだろう(※6)。 だが、プレイヤにプレイヤとしての自覚的な介入を求めるだけならば、「考えないプレイヤ」の啓蒙を促すだけならば、ここで用は済んだはずである。目的は達したはずである。 製作者の目的が、上述のような「読者のための読書方法の教授」にあるのではなかったのかもしれない、と思ってしまったのは、公式サイトの「もうひとつのガンパレードマーチ」のせいだった。 公式サイトの掲示板で行われていた内容は、上記の通りである。ゲーム世界としての「正しい」世界観に導くこと。読者があれやこれや想像/創造して議論するのとは訳が違う、何せ「製作者」が介入しているのだから、まさに「正しく」なってしまうのである。 これがあったために、製作者の目的は、単に自分の世界観の「正確なる」確立にあっただけではないか、とも思えてしまったのである。 ひどく寂しい気持ちであった。行間を読むことを、むしろ全く逆に「するな」と言われているような気分にさせられた。もしそれが目的であったのならば、見事に果たせたのであろう。プレイヤの一部はほぼ「正しく」ガンパレードマーチを理解できるようになったのかもしれない。 だが、果して行間は誰のものであろうか。 読者のものと言い切っていても、作者を優先させて寂しくなってしまっているわたしは、まだ答えを出せていないのだろう。むしろ、ガンパレードマーチというゲームが大好きだったからこそ。 |
| ※1: と、わたしは思っている。 ※2 論文には書いた時点では当人にとって穴があってはならないと思っている。 論文に於ける穴は、科学の根源にある払拭できない蓋然性から、必然的にいずれ出てくるものである。 ※3 所謂パロディのオリジナル設定と言い切る類のもの。多分。 ※4 旧世界観Q&A。 ※5 細々別ファイルとしてセーブしておかない限り。だがこれとて手間のうちに入るだろう。 ※6 物語世界の、とはまた話が多少別になる。物語世界の住人にさせる努力は、物語の住人にさせるための一手段である。 ※7 これもわたしが勝手に行間を埋めただけである。 |