心無きハートレスの主人公 ドラゴンクエスト/キングダムハーツ

 ドラゴンクエスト(以下ドラクエ)。言うまでもなく、日本のRPGの大家である。が、わたしはやったことがない。正確には何度かやり始めたことはあるのだが(そしてプレイを見たことはあるのだが)、どのシリーズも初っ端で違和感に耐えられず、中断したまま流されている。
 それは、十字架をシンボルに掲げる教会で死者蘇生を行う無神経さに腹が立つ、何故勇者が勇者で何故ラスボスがラスボスなのだろうという問いを無効化したシステムが好みでない、純粋にゲームとして面白さを感じられない、などの理由のせいかとぼんやり思っていた。が、先日、ようやくはっきりと自分がドラクエをプレイし続けられない理由がわかったような気がする。
 キングダムハーツ(以下時によってKH)というゲームがある。この物語の中で、主人公のソラという少年が、敵−モンスター(?)であるハートレスになってしまうというくだりがある。ハートレス。名前の通り、心を持たぬ者である。
 ハートレスとなったソラは、それまでとは違い、一切喋らず、動きも彼のものではなくハートレスのものとなる。いきなり喋れなくなり(※1)、何も知らぬ地(※2)に放り出される。それをプレイヤは操り、ひょこひょこと移動させる。移動させなければストーリィが進まないからだ。それはプレイヤの都合であり、プレイヤの意志である。心を無くしてしまったソラの意志ではあり得ない。ここでのソラは、仲間が自分を見て逃げ出そうが、見事なまでに語らない、動かない。最初そのソラが画面に出てきたとき、「自分が」ハートレスになってしまったことさえ気付かなかったくらいだ。しばらくぼーっとしていたのだが、動かない画面に首を捻り、そこで自分でそのハートレスを動かせると知るに至って、つまりコレがソラなのだと知るに至って、ここでわたしは強烈に違和感を感じた。そしてこの違和感こそが、ドラクエに感じていたものと同じだと気が付いた。
 ソラがずっとハートレスであったのならば、わたしはキングダムハーツもプレイを続けられなかったことだろう。何故か。結論から言ってしまえば、ハートレスの状態のソラに心がないためである。
 ソラがハートレスの状態のときに、移動手段としてわたしは、空に浮かぶ城? から盛大にジャンプした。それこそ落ちるように、下も見えないほど高いところから。ソラというキャラで何度も行っている行為だ、慣れているはずだった。
 ところが、このときわたしは、つい手が震えてしまったのだ。飛び降りるハートレス−ソラに、「死んでしまう」と感じたのである。その「死んでしまう」相手はソラではない、ソラであったのならば落ちても生きているとわたしは信じ切っていて、すでに何度も飛び降りている。この場合、死ぬと感じ恐怖してしまったのは「わたし」である。自分が死ぬ、と思ってしまったのである。
 ソラだったのならば。ソラというキャラクタであったのならば、今迄のように、「彼は飛べる」と信じ、何のためらいもなかったろう。だが、これはソラなのだと識別はしていても、恐らくわたしは認めてなどいなかったのだ。心の無いソラはすでにソラではなく、主人公であるハートレスはただプレイヤであった。否、ソラが敵の姿をしているが故に、或いはただ自分が何処かのハートレスを追って飛び込んだ、とさえ思ってしまったのかもしれない。ソラがハートレスの姿になり、仲間が誰も自分をソラと認識してくれなくなったことから、それは主人公の喪失となってしまったのである。主人公に心がなく姿がない、ということは、主人公が居ないことにも等しかった。
 ドラクエの主人公にも心がない(ようにわたしには見える)。心がない、というよりは、無個性化されていると言うべきか。それは「プレイヤに容易く物語るための機構をプレゼントするメディア」であるゲームの手法として有効な手段ではある。主人公とプレイヤの位置が近ければ近いほど、つまりプレイヤ=主人公であればあるほど、プレイヤは主人公の物語る物語を、あたかも自分が物語っているかのような錯覚に陥りやすくなるからである。主人公を没個性化するということは、プレイヤに「主人公という他人」を意識させない方法でもある。あたかも自分がまさに主人公でゲーム世界の住人であると思わせるのに容易くなるのである。
 だが、わたしにはこれが恐らく駄目だったのだ。わたしが初めてプレイしたRPGはFF2である。それ以降FFは9作目まで(※3)プレイし続けているが、FFというゲームはプレイヤと主人公をイコールにしようという努力さえしない方法を取ってきた(と少なくともわたしには思える)ゲームだった。あくまでも主人公はプレイヤとは別の視点で世界を見、時にプレイヤの手を離れて勝手に自らのストーリィを進める。プレイヤは主人公として世界を救うというより、どちらかというと世界を救う主人公に「手を貸す」といった表現の方が近い。わたしはそんなゲームに親しんできたし、そんな主人公達を愛してきた。
 つまり、わたしはまず「主人公を愛する」ことからゲームを始めることに慣れてしまっているのだ。あくまでもその対象は「自分ではない他人」である。「他人である主人公」を愛するのである。当然その「他人」には自分とは違う心がある。心がなくては愛せはすまい。
 そしてハートレスとは、わたしの愛する対象となり得ない存在だった(※4)。ハートレスとなったソラを、わたしは他人として愛せなくなってしまった。ハートレスという心無き主人公を、主人公として見ることができなくなってしまっていた。わたしは取っ掛かりをなくし、何処からゲームに入って良いのかわからなくなってしまったのである(※5)。「愛すべき他人」という、ゲームの「窓」を失ってしまったのである。ゲーム内キャラクタ−ハートレスを操っていながらも、ゲーム世界は完全にわたしから離れてしまっていたのである。それが故の違和感。
 何故そのような「自我ある他人」をこそ、ゲームへの導入口として必要としたのか。
 本当に主人公となってゲーム世界に入ったとしたら、非力で戦闘能力もない「わたし」は何もできずすぐに死んでしまうかもしれないということから、恐らくわたしは「ゲームに入り込むこと」を拒否している。だからこそ「他人である主人公」を求めたのだ。物語ることを目的として、つまりゲーム世界に入り込むことを目的として、ソラという主人公を求めたはずなのに、実はわたしは入り込みすぎても駄目な種類のプレイヤだったらしい。「ゲームに入り込む」ためと同時に「ゲームと距離を置く」ためにも、わたしにはソラが必要だったのだ。わたしとは違う、「その世界で生き抜ける能力を持った他人」が。それを意識させてくれるのは取りも直さず、わたしとは違う「主人公の個性」である。
 ドラクエでは言葉にできなかったこれをKHでは言語化できた理由は、恐らくこのゲームのストーリィと世界観に負うところが大きいが、根底は同じである。わたしがドラクエをプレイできない理由はこれである。ドラクエは、主人公が無個性であるが故に、そして戦闘シーンが徹底的に主人公視点であるが故に、わたしにとっては主人公が居ないも同然であり、取っ掛かりがなく、ゲームに入れないためである。主人公という介在なくして、少なくともわたしというプレイヤはわたしとしてゲーム世界に存在し得ない。ゲームに入って物語れないRPGなど意味がない。そういうことである。
 恐らくわたしは、ドラクエがドラクエらしくある限り、これからもあのシリーズをプレイすることはできないだろう。わたしが現実の戦場で勇者にならない限り(※6)。


※1:
プレイヤとしては主人公が「喋らなくなり」であるし、現在のソラとしても心が無いのならば「喋る必要さえない」のだから「喋らなくなり」なのだが、どうしても「わたしが」「喋れない」という表現にしたかった理由は、後述を読んで頂ければおわかり頂けるかと。

※2
そしてこの表現にしたかったのもわたしではあるが、この表現は明らかに心を失ったソラに視点を当てての表現である。プレイヤも心あるソラも実はその地を知っている。
が、それでもわたしがこの表現にしたかったのは、恐らく「ソラが居なくなったため」に感じた不安のせいだろう。

※3
これを書いた2002年、夏の時点での話。2003年の時点で、わたしはFF11をプレイしている(何度も再セットアップを挟んでいて挫けそう…)。

※4
実際にはハートレスは敵――不完全な他者である主人公に対し完全なる他者として見ている分にはとても愛らしく、愛玩物にできそうな姿であるのだが。

※5
ぬるゲーマだからだろ、というツッコミは当然自分でもしたが(笑)。
自分に問うた答えがこれだけだったら、わたしはこんな文章など書いてはいない。

※6
そして、だからといってドラクエが優れていないゲームだと言っているわけではない。あくまでも、わたしというプレイヤには向かないゲームである、と言っているだけである。
そこには好き嫌いという評価さえ存在はしないのだ、初っ端で言っているわたしの好みとは、全く別のところでプレイできないという結論を出しているだけである。