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Ragna Lock Heart


 さて、ラグナの項では一切、他のキャラクタのところで書いたような、キャラクタの秘密というものを書いていない。ないわけではない、山程あるにはあるのだ。例えばスコールの学籍番号が41269で「恣意にロク」と読めることからラグナロクのロクを恣意的に外した(或いはラグナにロクを恣意的に加えた)名が浮かび上がってくることだとか、ガーデン建設をエスタに頼んだシドは蓋しラグナのことを知っていたのではないかとか、RagnaではなくLagunaとなった場合に浮かび上がってくる文字がエル(EL)とユー(YOU)だとか、ポスターでラグナとスコールの間にグリーヴァと月が置かれている謎だとか、誕生日が1/3(Ether、秘密、日見などと読める)で名字がLiore(嘘)なんて全部が嘘っぽい雰囲気満載だとか。
 だがラグナは、その存在意義を考えるとゲームの外にまで出てしまう。ラグナというキャラクタは、その存在に籠められる意味が大きすぎて、上述のような謎など、表面上のものにしか過ぎなくなってしてしまう。そんな小さな謎など、わたしに語る気をなくさせてしまうのである。
 では一体、ラグナというキャラクタに籠められた意味とは、何であろうか。
 よく、ラグナ編が極端に短かったため、「2人の主人公というふれこみは嘘」、「ラグナ編など要らなかったのでは」という話を聞く。或いはスコールがラグナを操っているのではなければ、即ちただプレイヤのみがラグナを操っていたのだとしたら、わたしもそう思ったかもしれない。
 だが意図的と疑わざるを得ないほどのスコール編とラグナ編の極端な時間差、及び、それでも「2人の主人公」と最後まで言い切っているスクウェアの姿勢、また過去のラグナがスコール@妖精さんに気付いてしまう事実、だが妖精さん無しに世界を救ったもう1人の英雄としてのラグナ、そして夢で聞いたラグナの台詞を噛み締める後半のスコール。スコールに会って初めてラグナのムービーでの演出が為されたことも併せて、これらから示されたわたしの結論はただひとつ。
 ラグナとは、プレイヤに於いてはゲーム内主人公がスコールであるように、スコールに於てのゲーム内主人公なのだ、と。
 ラグナはスコールが接続した際、以下のように言っている。
ラグナ「なんだなんだなんだ〜! 最初のパトロールの帰り道はこっちと決めてるんだよな。オレは」
キロス「妖精さんの仕業か?」
ラグナ「……かもしれない」
 これを見ればわかるとおり、ラグナはスコールに確かに「操られて」いるのだ。その意味に於いて、ラグナは確かにゲーム主人公である。ただそれは(スコールがプレイヤに操られている関係と上下の相を見せているが故に)プレイヤにとっての、と言うよりはやはり、スコールにとってのゲーム主人公であったのだ。だからこそ、ラグナ編のムービーは存在せず、ラグナがスコールに会って初めて、つまりラグナが(スコールというプレイヤにとっての)現実世界に関わって初めて、スコールの世界での実写に当たるだろうムービーで(制作者によって)表現されるようになったのである。
 ラグナの夢(スコールの見るラグナとしての世界)は、スコールの(ゲームスタートからエンディングまでの)人生に於いて、はっきり言って必要のあるものではない(スコールにとっての父親の話ではなく、あくまでもスコールにとってのラグナという観点で。まぁ親だって実は……とは言わないでおこう、うん。少なくともスコールにとっては親なんか必要ないって存在じゃあないだろうし、父親だからこそスコールがラグナという過去を考えるきっかけともなったのだろうし)。それはわたしたちプレイヤにとって、スコールの人生が必要ないのと同様である。
 だがそれでも、人は何故ゲームをするのか。全く必要性などないはずの他人(スコール)の人生の一部をなぞることで、何が得られるのか。その答えを、作り手であるスクウェア自身が求めたのではないか。ラグナの夢を見るスコールとエルオーネを見て、わたしは思ったのである。
 日本のRPGの草分けがドラゴンクエストであったことは言うまでもないだろうが、このゲームを基準にRPGというものを考えるならば、また通常良いゲームとされる雛型から考えても、主人公=プレイヤであることがRPGの大前提となってくるのは間違いない。つまり主人公の意志がプレイヤの意志となり、主人公の目的がプレイヤの目的となる、という意味である。それは主人公と「なる」ことで能動的に「物語る」メディアとしてのゲームの理にも適っている(実際には小説等でも没我の読み方ができる能力の読み手は居る。が、そんな能力のない通常人のわたしなどからすれば、ゲームというメディアは小説等のメディアより、より容易く物語に移入できるシステムなのである)。他人(主人公)の人生を操るといった不自然さをプレイヤに感じさせない工夫でもある。
 ところがスコールは、プレイヤとイコールではない(まぁ基本的にFFはずっと三人称の語り口を取ってはきていたのだが)。プレイヤが通常のRPGのように好き勝手にFF8世界を嗅ぎ回ろうとすると、スコールのSeeDランクは落ちてしまうのである。これはSeeDとしてのスコールの望むところでは当然あるまい。そのようなシステム面に於てのみならず、ストーリィとしてもスコールはプレイヤの介在を必要とせず世界を旅立つ。最たるものが、最後にアルティミシア城の場所を仲間に告げるスコールだろう。アルティミシア城の場所など、プレイヤは知らない。だがこのゲームは、自然とその場所に導いても良かったものを、敢えてスコールに語らせているのである。
 これは上述のラグナの台詞と同じ意味を持っている。ラグナの意志がスコールの意志とは異なり、操られていることをよしとせず、ラグナが自分の意志で動こうとしたように、スコールもまた、プレイヤに操られているだけの傀儡にはなり得なかった。なり得なかった、とするより寧ろ、ラグナ編を作ることによって、スクウェアは敢えてスコールをプレイヤとイコールにはしなかったのだと思える。スクウェアが、ラグナとスコールにプレイヤと同一でないことを語らせてしまっているのだが。イコールではないのだと、プレイヤに気付かせるため、敢えてラグナ編を作り、ラグナにスコール@妖精さんの存在を気付かせたのではないか。
 通常、主人公はプレイヤの介在を必要とする。主人公がRPGらしい英雄たり得るのは、主人公を「ファンタジィの源泉であるプレイヤ」が操っているためである(ガンパレードマーチなるゲームをプレイしたことのある方ならこの意味が良くおわかりのことと思う。実はこの発想は、ゲーム世界が実在していると言ってしまっているようなものである。が、実際にはそのように思わせる手法でしかない。ないのだが、そんな手法が存在するということは、そう錯覚させるだけの力がゲームなるメディアには存在するのだろうことから、敢えてゲーム世界の実在があるかのような口調で続けさせて頂く)。
 だがラグナは、ゲームの主人公であるはずのラグナは、プレイヤであるスコールの存在を実は全く必要としていなかった。スコール(この場合普通に考えればイコールエルオーネとしても良い。実際にはエルオーネの思惑を超えてスコールが過去を求めたのだとしても、それはゲームの本筋ではない)はラグナを操って過去(ゲーム)を自分の思うまま変化させ、レインの居た世界を救おうとしたが、実際には何も変わらなかった。そして、一般的な世界英雄物語としてのRPGとしては肝心だろうラグナが英雄になる瞬間(アデルがエルオーネを攫いにきたとき、或いはラグナがアデルを封印するとき)に、スコールはラグナを操ってなどいなかったのだ。
 不思議な力を、ファンタジィな力を、(ゲーム内主人公はそれを知りようもないが)自身の欲求のため提供してくれる不思議な不思議な妖精さん。通常はその妖精さんの力なくして、ゲーム内主人公は英雄とはなり得ない。異世界の住人、ファンタジィの源泉。だがFF8では、ラグナはスコールの力を必要とはしなかった。スコールはただラグナの人生を垣間見るだけで、通常のゲームのようにラグナの人生を自分の思いままに変える(ような錯覚に陥る)ことができなかった。
 だがそれは、絶望なのだろうか。スコールは、そしてエルオーネは、ラグナを恨んだだろうか。過去を嘆いただろうか。
 「あなたたちは私の目になってくれた。あなたたちのおかげで、私がどんなに愛されていたかわかった。過去は変えられなかったけど、それを確認できただけでじゅうぶん。本当にありがとう。知らなかった過去を知ることはできる。過去を知ることで、それまでとは違った今が見えてくる。変わるのは自分。過去の出来事ではないの」。
 ラグナがエルオーネを愛していたこと。それは多分に、FF8の制作者達がプレイヤを愛してくれていることをも暗喩している。「変えられないシナリオ」「やらされゲー」「一本道のストーリィ」。FFに良く聞く批判ではあるが、それは決して制作者がプレイヤを憎んでそのような作りになっているわけではない。ゲームの構造として、どうしても抜け出せないストーリィの自由と束縛というジレンマは、どれほど自由度の高そうに見えるゲームとて当然ある。ただその自由度を、どのような形で出すかというだけの話である。
 プレイヤの思いのままにならない主人公、そしてストーリィ。だがそこに篭められたたくさんの思いを、わたしたちプレイヤは主人公のように感じ取れただろうか。何かを受け取れただろうか。
 スコールは言う。「悪いことは言葉にすると、本当になるって誰かが言ってた」。ラグナ編で、少々不自然にも繰り返された言葉である。
キロス「追い詰められた……とも言うな。……普通は……そう言うな」
ラグナ「そんなこと言うと、ホントになるぜ。おばあちゃんに言われなかったか?」
キロス「……悪い事を……言葉にすると本当になる……ああ、言われたな」
 そしてスコールは再びこの言葉を仲間との会話に繰り返す。誰が言った言葉かも忘れて、ただ大事そうに。
 人がゲームに費やす時間は、その長い営みの中のほんのわずかだ。その短い時間の、更に1本1本の内容を、事細かに憶えていられるはずがない。だがそれでも、何かが残ることを制作者が期待していることは、スコールの台詞からも明確である。
 ラグナとは、この意図のために作られたのである。彼が背後に抱えるだろう謎も生き様も、すべてはこの事実の前に霞んでしまう。とても主人公らしい性格をしたゲーム内ゲーム主人公ラグナと、主人公らしくなく寧ろ現代のプレイヤの様相を見せるゲーム主人公スコールの物語。それはひとえに、ゲーム主人公とわたしたちプレイヤの関係を暗示している。
 そして、だからこそわたしは言う。ラグナとは、スコールに自身の存在を考えさせたように、我々プレイヤにプレイヤとしての自覚を促す装置である、と。
 FF8は一般的な意味で自由度はそれほど高くはない。だがストーリィの本筋(スコールとリノアの物語)の外に、例えば愛すべき(性格に作られたゲーム用の主人公)ラグナの謎などの山程の含蓄めいたトラップ(わたしが散々語ってきたスコリノ兄弟説やシド確信犯説、エルオーネ神説等を考える切っ掛けとなりそうな仕掛け)を仕掛けることで、プレイヤのプレイヤとしての思考に自由度を持たせたのだ。そしてまた、それを本筋とは別のところに存在させてあるが故に(そして敢えてすべての謎に、たとえ存在しているとしても明確な答えを設けないことで)、プレイヤはただ本筋だけを楽しみ、無理に謎を考えずとも良い作りになっている。ただ単に楽しむだけのゲームとしても成り立っている。
 考えることを強要などしていない、その作りはわたしには好ましい(ガンパレードマーチの「柴村の謎を解いてみよ」という、プレイヤに対する教育を非常に怖く感じてしまったような人間なので。教育に1番必要なのは、色々な可能性があるのだということを示すことだと思っている)。考えるのが好き嫌い構わず、考えないとき、考えられないときが人にはあるのだろうから。だができれば、いつかでも良いから考えてほしい、とスクウェアは言っているようにわたしには見える。何故なら、スコールはラグナが自分にとって何であるのか、に気付いたのだから。
 「君は母親に似ているな」とキロスに言われ、それを黙認したスコールが何も気付いていなかったはずはない。彼は知っているのだ、レインが母親であることを。そして恐らくはラグナが父親であることを。
 ポリゴンではレインとスコールが似ていることなどわからない。それ以降にプレイヤに彼等が親子であると気付かせる示唆もない。ならばスコールは、プレイヤとは別のところで自分で考え、自ら真実を掴み取ったのである。そしてスコールが、ゲーム主人公であると同時にプレイヤでもあるのならば、その上位層としての我々も、スコールの(周囲に張り巡らされた)真実をわたしたち自身の手によって掴み取らねばならないのである。その訓練のためにスクウェアは、嘘まで吐いているのだから。

目覚めなさい 私の子供たち
ゆりかごはもうありません
目覚めなさい 運命の子供たち
やすらかな眠りは終わりました

立ち上がりなさい
真実の庭を見つけなさい

燃えるような真実で
世界の嘘を焼き尽くしなさい
燃えるような真実で
世界の闇を照らしなさい

さようなら 子供たち
また会うときは運命のとき

 オープニングで、そしてアルティミシア戦で流れる『Liberi Fatali』である。イデアからスコール達へのメッセージとされるのが普通であるが(しかし寧ろアルティミシアとしてのイデアが言ってるようだからなぁ…)、これはFF8に存在するスコールの物語の外に、明らかに嘘を以て隠匿れたストーリィがあることを示してもいる。FF8の謎とおぼしき事象はすべて、確証の得られない程度にしか触れられないものではあるが、それでも確実に存在はするのである。しかも矛盾を敢えて含んだ形で。何故なら、真実で焼き尽くすべきは「嘘」と言われてしまっているのだから。ここで「嘘」と訳された「mala」という単語であるが、これは形容詞 「malus−悪い」の中性複数対格名詞用法であり、基本的には「悪いものを」焼き尽くしなさいとなる。だが「あなたたち」に「焼き尽くしなさい」と言っているのは、あくまでも「嘘」なのである。悪と嘘とは別物である。ここで明らかに意図を以て、スクウェアは「嘘」を焼き尽くせと言っているのである。
 それの意図するところは、プレイヤに対する啓蒙促進。プレイヤがプレイヤとしてゲーム世界を求める姿勢を育てるための。
 そして、ゲーム内においてスコールに纏わる謎を解く鍵であるのがラグナである。ラグナの存在(夢)なくしては、(スコールはともかく)プレイヤは過去の様々な謎に時間的説明を入れることができない。ラグナの残したたくさんの足跡に、わたしたちは歴史を知り事実を照らし合わせ、嘘を見抜くことが初めて可能となるのである。
 そして、ここで照らし出されるべきは、主人公に纏わる、だが主人公も知らない、主人公の謎なのだろう。スコールはすでに主人公(ラグナ)の真実を見付けた。今度はわたしたちプレイヤの番である。歌で呼びかけられる「あなたたち」はプレイヤのこと。見付け出されるべき「真実の庭」とはスコールのこと(スコールの部屋番号は28−ニワである。またSquallの由来は発音から恐らくLiberi Fataliとほぼ同義のSacer。余談だがキングダムハーツでスコールがSquallと名乗れなかった真の理由はこれではないかと。だってKHでのSacerは明らかにソラであるから。世界が元に戻るまで元の名は名乗れないと言ったレオン。スコールが何もできなかった自分と決別するためにレオンと名乗っているだけならば、世界が如何に元に戻ろうとも、スコールを名乗れるはずはないのだから。クラウドの左腕の件もだし別のゲームで補完すんなよ四角屋ってちょっと思ってしまったが、果して真相は)。
 そうして真実を見付け、わたしたちは運命付けられた子供達(ゲームという過去)にさようならをするのだ。だがそれは決して終わりではなく、或いは始まりでさえなく。昔から、これからも、わたしたちが連綿と続く生の営みの中で繰り返すべきメディア・リテラシィである。メディア。語源は母の知恵を意味するMeと、女神(後の魔女)を意味するDeaである。
 Diebus fatalibus。また会うときは運命のとき、と訳されているこの文の「diebus」の意味は「日々」である。一瞬の時を指し示すものではないのだ。
 目覚めなさい、Sleeping Lion Heart。ライオンハート、私の最も大切なもの。運命に定められた庭園で眠る使者(VIVIDARIUM ET INTERVIGILIUM ET VIATOR)よ。