あれ以来、幽助はやたらと蔵馬にふれる気配を見せた。時に殴りかかるかのようにこぶしを固めて、時に撫でるかのようにてのひらを髪にかざして、そうしてだが、実際に彼が蔵馬にふれたのは、ニアミスにも近い接触のみであった。恐らく彼は練習しようとしているのだろうと蔵馬には推測される。
蔵馬の知る限りの幽助、つまり蔵馬と出逢った後の幽助が、喧嘩によって友情を育むことの多いことは、当然蔵馬も承知していたところの事柄であったが、まさかただの一度も喧嘩をしたことのなかったという事実が、気付かせてしまえば彼に衝撃を与えるものであったということは、蔵馬にしても予想外の事実であった。出逢ったよりも更に子供の頃の幽助を蔵馬は知らない。出逢った当時、霊界探偵のことを調査こそしたが、その調書は、彼が喧嘩でしか他人とふれあったことがなかったなどと、蔵馬に伝えはしなかった。
思えば幽助は、蔵馬と喧嘩をしたことのなかった幽助は、自覚的に蔵馬の肉体にふれたことがただの一度もなかったのだ。彼が蔵馬に手を伸ばしていたとき、それは、さぁ喧嘩をしようなどという昂揚を伴った彼の意思などとは全く関係のない、例えば蔵馬が立てないときに思わず支えてしまうような、無意識の所作でしかなかった。
自分の意思とは遠いとおいところで蔵馬にふれてしまったあの日から、けだし幽助は自分の意思のみで蔵馬にふれることを意識している。そう蔵馬は考えている。それがまずは物理的、肉体的な接触だのと、何とも赤ん坊じみて可愛らしいことではないか。
蔵馬が認識していたよりも、遙かに幽助は蔵馬という存在を失いがたいものとして、即ち壊すべき対象として捉えているということになるのであろうか。意外と言えば意外であった。彼が蔵馬という存在に興味を示した場面をなど、蔵馬は見たことがなかった。否、幽助が能力抜きで興味を示した他人など、螢子と温子しか知らなかった。そういう人間なのだと思っていた。その彼の孤独をも好ましいものとして見ていた。
本来何かを獲得することもない蔵馬にとって、ヒトとなった今現在、獲得と破壊は同義である。その視点を幽助にも他の誰にも求めるつもりはなかったし、そうしたわけでもなかったが、コエンマに言ったとおり結果としては幽助も、蔵馬の破壊という行為により何かを獲得したようであるし、獲得できるとは蔵馬にしても事前に確信していたところの結果である。それはまた、蔵馬の示唆なく自分が食べに行くとしたら誰だったかを幽助自身が無意識にも自覚していたことから、幽助にとっても自明の理だったようである。幽助は賢しい。人の生が死の上に成り立っていることを理解している。
人道的価値の上に育ってきた社会適合者達はこれに気付いていない、或いは気付かない振りをすることが多い。道徳を供物のように社会に差し出して、社会という生き物に、切るべき対象として己が認識されないようにと、怯えながら生きている。壊すべき対象を、自分の細胞やらペットではない家畜やら、範囲を狭めて狭めて何とか不自由に生き延びている。ヒトはそれを優しさと呼び、人間らしさと定義し、蔵馬はその自らを不自由にするための公理の構築という行為をこそ、人間らしさと定義する。それはヒトにとっての前或いは後ろに進むための機構であり、まるで今にも転びそうに前傾姿勢を取っているようにさえ蔵馬には見えるものであり、堪らなく愛すべき対象として認識されるものである。
それは学校社会やら人間としての命やらを自律的な意思によって自ら切り捨てた、幽助には或る意味で存在しない性質である。彼はひとりで何処かに進んでいる。社会の差し出すスプーンから甘たるくとろついて滴るシロップを何処か諦めて、ひとりで不自由な縄を張り巡らし、それが他の人間にはとても自由と映るだろうこととは、蔵馬にしても想像に足る。
だからもし幽助が手を差し伸べるならばそれは、幽助に対する最大の尊重を以て、あくまで幽助自身の意思以外にはあり得ないと考えるべきだと蔵馬は思っている。
幽助が、食べに行くと感じていた螢子はだから、幽助にとって最も大切な人物であり、そうしてだからこそ、ヒトとしての幽助には失わせてはならないとも蔵馬は感じていたのだが、その結果がこれとは。意外であった。或いは、あの時点で幽助は認識を改めたのかもしれない。あのとき初めて幽助は蔵馬に興味を抱いたのかもしれなかった。理由は至って単純で、たとえ物理的な形にしろ、内部に取り込んだ存在と幽助が見做したからであろう。食べ物ではない、幽助にとってはヒトなのだろう対象を、彼は過失とはいえ摂取してしまったのである。喧嘩相手の外傷から洩れる僅かな内部接触でしか他人を受け入れたことがなかったのかもしれない子供の、それは初めての体験だったに違いあるまい。
ここで幽助に尋ねるべき言葉がもしあるとしたら、至って単純である。「オレを好き?」。言葉にしてしまったらその程度のものでしかなく、今ならば幽助も答えられるかもしれなかった。
ただそれによって何がもたらされるのか、それを考えるとぞっとしない。あの不安定な人格に対し蔵馬という現象にふれる機会を与えてしまったら、それは蔵馬と同一になってしまうような気がしないでもなかった。根本的にあの存在はヒトの中にあって蔵馬に近く、だからこそ蔵馬は彼を愛おしんだと言って過言ではないし、彼の願いはできる限り叶えようともしていたし、そうして彼を理解することを放棄したと言って良い。
尤もそれが、蔵馬に限りなく近くなるそれが、幽助にとっての彼自身であるというのならば蔵馬としても否の言いようもないはずではあるが、それだけが唯一、蔵馬にとっては恐怖するところの状態である。蔵馬は幽助を理解したくない。幽助を蔵馬に取り込んでしまうことほど、あり得ないとはわかっていても怖いことはない。それは蔵馬が幽助を殺すことを意味しており、そうして蔵馬は幽助を殺した。
涙が流れた。
思った以上に自分という人間の殻はヒトを、母親を、取り込んでしまっているようだと蔵馬はわらう。
切り捨てたくない、殺したくない、自分にとって必要な存在であってほしい、その願いは今、幽助と蔵馬の間で一致を見ているにも関わらず、その結果はあまりにも懸け離れている。
だが結局、自分は幽助と交わることとなるのだろうとも思う。幽助が何も求めない人格であるうちは良かった、問題はなかったが、だが幽助が変わるのならば、幽助に求められて否と言える蔵馬ではないのだ。そうして己が幽助を取り込めないのならば、幽助に己が取り込まれることとなるのだろうことは予測できた。
蔵馬という名をも持たないところの存在は本来、誰でも何処でもなく、すべての外界であり内部であり、それが故に幽助というムラに取り込まれることも可能かもしれなかった。螢子も、そして温子でさえも稀人として認識しているらしい幽助にとって、或いは唯一ムラに獲得することの可能な存在が、蔵馬という存在の幻想かもしれないと考えられなくもない。
そうして幽助を思うのと並行して蔵馬は悩む。思い悩む。理を打ち立て反駁し取捨し検証を繰り返しながら悩んでいる。
渡り鳥の法則と叙情詩について。
ダイバシチ機構の単純化とフェージングについて。
光の幽閉と立方体について。
セーラ服のプリーツとフラクタルについて。
ナノテクノロジのバイオ利用について。
どこでもドアとチューリングテストと仏教思想について。
光学迷彩と赤血球と自殺願望について。
なんともはや人間らしいことだと笑えてくるのだ。人間は謎を生むために答えを定義し答えのために謎を用意し、それは蔵馬がこのように思い悩むことでいっそ何の悩みなぞない人格になっていることと似ていた。答えがあるために悩む、それをこそ蔵馬は人間の人間らしい所作だと感じており、だがその悩み故に人倫から離れ、その離れゆく場所をして人間が人間らしく感じるらしいこともまた理解していた。人間らしくあるためのバランス、それが目下、蔵馬の興味を惹くところだった。蔵馬の人間に対する愛情と同義である。
コエンマが蔵馬をして体系そのものと評したが、或る意味でそれは正しく、或る意味で全くの間違いでもある。ただ蔵馬を使役したモノが体系を観じ、世界樹やらアカシックレコードやらと呼ぶだけの話であって、蔵馬自身はことわりなど意識もしない、意識する主体がない、意識する必要がない。していなかった。
その蔵馬に今、蔵馬自身が理を構築し始めている。これをして人間や妖怪に対する愛情と呼べないのならば、蔵馬は何にその名詞を割り当てて良いのか見当も付かない。蔵馬の破壊をして蔵馬はヒトという蔵馬になろうとしている、それは蔵馬によるヒトの獲得である。
ただ、蔵馬はそのヒトの範疇に幽助を入れてはいなかった。幽助を獲得したくなかった、幽助を理解したくはなかった、幽助は常に蔵馬のあり得ない外界であってほしかった。
全く以てあり得ない。
幽助を殺して自分も死んでみるのも面白いかもしれない、という思考は一応閉ざした。
あれから半年。幽助は、未だヒトを食べる気配の欠片も見せない。