メグライオン・コンプレックス

 人間に、人間が良いものだなんて、教えられたことはあまりなかった。

 久々に会って突如、桑原君人生をとっくり語り合おうじゃアないか、などと幽助に肩を組まれてしまった桑原は、その不気味さに思わず奇声を上げて後ずさりで逃げてしまったものだが、困ったような訴えるような眸を向けられて、彼が何やら藁にもすがる心中なのだろうことに気が付いた。その眸には見憶えがある。捨てられた仔猫の眸。桑原は連想する。

 引きかけた身体を正して向き直り瞳を覗き込めば、ほっとしたように幽助は緊張を解き、へっへっへ実はおまえと雪菜ちゃんの進捗でも聞こうかと思ってよ、などと悪ぶれた表情を作る。それを痛ましいと桑原は思う。痛ましい。それは桑原にとって幽助に対する愛情に包含される感情である。

「雪菜さん? ふふん、相変わらずのラブラブよ、任せろ」

 彼の訊きたいことが、果して本当に自分と雪菜のことなのかは知れなかったが、何も状況の把握できない現在、桑原は取り敢えず話に乗ったようであった。

「……それは相変わらず進展してないと聞こえるのは気のせいデスカ」

「しっつれーな。いいんだよ、あの人が愛っつー言葉の意味を知るまで待つつもりなんだから」

 目を見開いて押し黙った幽助を、多少紅くなった頬の上の細目で睨み付ける。桑原の想い人は氷女と呼ばれる妖怪で、彼女は長年人間に痛めつけられてきた人で、生まれ出でた頃から家族の顔も知らない人だった。

「べっつに。最初っから、妖怪と人間の感情や価値観が同じなんては、思ってねえよ。どうせ人間同士だって同じじゃねえしな。あの人は一生わからないままかもしんねぇけどよ、でも諦めたくないなら、頑張るしかねえだろ」

 どうせ人間同士だって。

 その言葉は桑原には重く、そうして若干の怒りと陰鬱な哀しみを呼び起こすものでもあった。顔を落とす。幽助の視線を感じた。

 あの頃。世界に傷付いて世界に牙を剥いて世界を打ち壊す力のみを求めていた中学生の頃、世界の示す大方の価値観は桑原にとって理解できないものであった。否、理解できなかったのは価値観そのものよりは、それに馴染めぬ人間に対する糾弾であった。馴染めない、そのような子供を大人達は寄ってたかって落伍者だの社会不適合者だのとして矯正しようとしていたが、或る意味で非常に常識外れの家族を持っていた桑原は、囲い網に引っ掛かりはしなかった。

 中に入れば、結局外の人間をヒト扱いしないものだと。

 多少は人間社会のこともわかってきた今となっては、中に入りなさいという大人達の忠告は確かに彼等の優しさでもあったのだろうとは思えるが、それを受け入れるには、少しばかり攻撃の手は強すぎ、そしてその攻撃に慣れすぎていた子供を近くで見すぎていた。つよい子供だった。激しいこどもだった。強すぎる自我は、だが周囲を攻撃することで生まれたものではなく、周囲を受け入れて生まれたものに見えた。

 鳴り物入りで入学してきた子供だった。ヤクザの子供だとも暴走族の頭だとも噂されていた幽助は入学早々、他校の生徒と、しかも高校生を相手に喧嘩をし、圧勝し、いっそ神懸かり的にも見える力を校内に知らしめたのだった。

 大人達はこぞって浦飯に関わってはいけないよと言いながら、幽助を隔離しては彼を不良と呼ばわり、批判なくそれを受け入れた子供達もまた彼を不良と呼ばわり、そうして幽助はそれに反論どころか、そうだな、と呟くのを桑原は聞いた。聞いた次の週には、幽助の装いはリーゼントに短ランという出で立ち。無茶苦茶だ、何なんだあの子供はと構い始めて殴られ殴り返したのが最初で、彼との喧嘩を楽しいと思っているうちに気付けば桑原も不良と呼ばれる範疇に入れられており、ああそうかと幽助の行動も腑に落ちた。

 腫れ物扱いされることなどすぐに馴れた。ヒトでない、そこまで言われることにすら馴れた。幽助等をバケモノと呼ばわり、そうして倦厭し、だからこそ鎮めて陣営に引き入れようとする周囲の態度に、だが馴れようとも腹は立った。

 一時など、本当に自分は人間ではないのかとさえ考えたものである。そうしてひどく傷付いた幼い自分を、桑原は今でもしっかと憶い出せる。傷が癒えていないからだ。血は流れ続けているからだ。それに傷付くことはもはや、彼のアイデンティティとなってもいる。自分だけはそんなことを言う人間にはなるまいと思う、それは桑原の矜持であった。不良のポーズはその意思表明でもあった。

 ヒトが暴力に弱いのは仕方ないとは思う、学習された暴力への恐怖を克服するのは難しいとは思う。だが実際には振るわれていなかった予断の暴力に屈する弱さで相手を傷付けようとする、それもまた暴力ではないとは決して言えまい。幽助に恐怖していた弱く脆い人間達、その弱さで幽助を糾弾する人間達、それをこそ当時の桑原は恐れていた。

 それでも、いつしか自分も大人になる時期が来る、苦しい淋しいと叫ぶ子供達の痛みをわかってやれないときが来る。予感でしかないと思っていたが、徐々に感覚が鈍磨していることが錯覚ではないのだろう証拠に、この頃随分と自分は、このヒトではない友人に無自覚にも傷付いたかおをさせてしまっていると思った。だからこそ子供のまま苦しみ続けることを選択する。選択し続けていないと自信がなくなるほど、自分を受け入れる環境のある現在は心地良い。

 高校なんぞ、大学なんぞ、中学の延長でしかないと思っていたが、己が変わったのか、周囲の人間が変わったのか、今となっては珍獣扱いこそあれども、昔のように明ら様に嫌悪を向けられることはなくなった。男に当り前のように肩を組まれ、女に恥じらいながら告白される、そんな今の状況は、昔では到底考えられなかったことである。それが心地好い。大人になったことが、こんなにも心地好い。その心地好さの前には、自分を苦しめ続けた幼い自分を殺してしまっても構わないと、膝を屈したくなるほどである。

 今ならば本当は、雪菜以外の女であっても愛せなくはないのだろうと思っている。酒に流されて戯れのように気の合う女と肌を交わしたこともある。おんなのやわらかな身体に受け入れられることは、長年自らひとに拒まれ続けた桑原の孤独を確かに癒し、涙を流させた。

 そうしてだが、憶い出すのはたったひとつの言葉なのだ。

(私、あなたのこと好きです)

 桑原の想い人は氷女と呼ばれる妖怪で、彼女は長年人間に痛めつけられてきた人で、生まれ出でた頃から家族の顔も知らない人だった。長い間閉じ込められ人格を否定され人生を搾取され続けた場所で、その絶望の中で、どうかヒトを嫌いにならないでほしいと懇願した桑原に、まるでマリア様のような微笑を向けて、彼女はこう宣った。

(私、人間のこと好きです)

「雪菜さんが、でも人間のこと好きだっつってくれたんだから、何にも諦めねえよ、オレは」

 人間に、人間が良いものだなんて、教えられたことはあまりなかった。あの頃、世界に傷付いて世界に牙を剥いて世界を打ち壊す力のみを求めていた中学生の頃、ひとが美しいと、桑原に教えてくれたのは主に、ヒトならざるモノたちであった。

 所謂妖怪と呼ばれる類の生き物であった。桑原の感情を逆撫でない、それは恋心を解さない氷の瞳をした少女であったり、人臭い老獪な狐であったり、プライドの高い三ツ目の童子であったりした。彼等こそ人間界に於て真の異端であった。実際に人間に祀られて鎮められて神とも鬼とも呼ばれるべき存在であった。自身が異端であるが故にか、彼等は桑原の、幽助の、ヒトとしての些細な異端をなど気にもせず、そうしてヒトとしての彼等を受け入れていた。

 堪らないと思う。ヒトに飽くことなど何度もある、ヒトを見限りたい衝動に駆られることなど幾度もある、そんな多感な思春期に、ヒトもくれぬ肯定をいともあっさりと与えてくれる妖怪などに出逢って、傾倒せずにいられる人間が居たらお目に掛かりたいものだと桑原は思う。

 ましてや、己よりもずっと飢えたる異端を抱え込んでいた幽助などにとっては。

 そう思う。ぼそぼそと言葉を選び始めた幽助の、つむじで髪が踊っている。今は短い、これは一晩で伸びる髪だ。風があることに気が付いた。

「雪菜ちゃんはさ、……」

「…………」

「何で人間を好きだなんつったんだろうな……」

 本人に訊けば良いものをと思わないでもなかったが、すぐに、幽助が本当に尋ねたい相手は雪菜ではないのだと気が付いた。幽助と雪菜の間にはあまり接点がない。逆に幽助と親しく、ヒトを好きだと言いそうな、そうして幽助が尋ねたくはないのだろうヒトならぬ人物には、心当たりがあった。

「オメーなぁ……オレにわかるはずないだろ」

「……そうだな」

「オレにわかるのは、オレがその言葉に救われたって、ただそれだけだ」

 おもむろに幽助は顔を上げた。表情は幼く、髪をなぶる程度の風に流されてしまいそうな印象を受ける、このひとはこの世界に居る誰よりも強いのだと知りながらも、いつまでも桑原を心配させてやまない存在だった。

 どれほど他の女を愛せようと思えども、雪菜を愛したいと思うこころは、この友人を心配する気持ちにひどく近い。たとえ身体が人間のままであったとて、このひとはヒトの中には入れまい、あのひとよりも入れまい。

 異端なのだ。ヒトとしてはあまりに異端なのだ。自らが異端寄りだった頃にはあまり気付きもしなかった、幽助の特異性が、今ならば良く見える。

 ヒトに拒まれることに対してのヒトとしての恐怖があまりにも少ないひと。あまりにもこころも身体も痛がり屋ではないひと。何も知らない赤ん坊のように危険に向かってゆくことのできるひと。

 まるでたったひとりで生きているかのようなひと。

 それが幽助に惹かれた最初のきっかけだったと、思い返せば確かにそうなのだが、普段彼が周囲に見せる眩しいほどの笑顔に、ほとほと忘れ果ててしまう。忘れ果て、そうして受け入れられる日常に笑う桑原を見て微笑み、背中を向けて無言で立ち去ろうとする幽助に、桑原はようやっと憶い出す有様だった。

 ひととはそんなにも孤独で在れるものなのだろうか。雪菜のしろくつめたいゆびに救われたと思ったあの日、それでも桑原はヒトが好きだった。だから雪菜にもヒトを好きで居てほしかった。雪菜が好きだと言ってくれたヒトで在りたいと願った。

 だが幽助は、恐らくこのひとは、ヒトで在りたいとはあまり思っていないのだろうと桑原は考えている。かといって妖怪になりたいわけでもなく、何処へ行ってもひとりでしかない自分を、けだしわかっているだけであろう。

 だが何があったものか、今、幽助がヒトに近い。近くなっている。ヒトを気にしている。ヒトである自分に、或いはヒトでない自分に、恐怖を感じているかのような体を見せている。

 蔵馬が、あの幽助よりもヒトを体現する妖怪が、幽助に何を言ったのか、何をしたのか、桑原には窺い知れなかったが、何かがあったのだろうことだけは察しが付いた。幽助自身が気付いているのかいないのかは知れなかったが、桑原の聞いたところ、幽助と蔵馬の出逢いも、自分と雪菜との出逢いに似たようなものだと当時思ったものだった。妖怪が人間を大事にしてようやっと、人間も良いものかもしれないと思うことができる、その甘さ加減は自分も幽助も同じではないかと感じた。桑原とて、蔵馬の母親を大事にする姿勢にはいたく感動したものである。母子家庭であった幽助が蔵馬を見て何を思ったかは想像に難くなかった、なかったが、恐らく彼は無意識に温子を思っただけで自覚はあるまい、とも思っていた。が。

 自覚を始めたら、今のように自覚を見せてしまったら、この子供がどのように壊れるのか、それは桑原にはわからない。わからなかったが、桑原にとってそれは、涙が出そうに嬉しいことのようにも、甘美な崩壊のようにも感じられた。だからせめて一言、と一石を投ずることに今、一切の躊躇いはなかった。

「オメーは救われたのかよ?」