葛葉

「――…ということで、取り立てて人間界で問題は起きていません」

 何が理由で呼び出したかも知らぬげに、童女のように残酷にも無邪気な笑顔で、いけしゃあしゃあと狐は言う。

 定例会と称しての尋問は、本来ならば罪を犯した妖怪の監察目的であったはずであるが、蔵馬の情報収集能力をして、その目的は変わっていった。幽助や飛影からはとても期待できぬ人間界の状況の逐次報告、それをコエンマは蔵馬から受けており、表向きは今回もそれである。

 問題なし。

 嘘を吐いているわけではあるまい、蔵馬にとっては或いは本当に何一つ問題などではないのかもしれない。が、しかし蔵馬は知っている。それがコエンマにとってはゆゆしき問題であるということを、知りながらも嘯いている。問題があるからこそ呼び出した、こちらの事情をまるで無視していつもが如くの貌をしている。

 狐め。

 コエンマは心の中でちいさく毒突いた。

「先日、幽助がおまえのところに行ったな」

「ええ」

「問題ではない、と?」

「あなたが問題と思うのならば問題でしょう」

 動揺の欠片も見せない。苦々しげにコエンマは続けた。

「あやつはもう、人間しか食べられないのか?」

「いいえ」

 血が上る。答えはいやに簡潔で、その即答は何処までもあの事象が蔵馬の予測範囲内であったことをコエンマに知らしめ、ならば何故、と疑問は怒りに取って代わる。

「なら最初からあやつに話しておけば、そもそもそんなことも起こらなかったんじゃないのか。或いは済んでしまったとしても、記憶を消しての再起は無理だったと言うのか……?」

 幽助が完全な食人鬼にはなっておらぬことを、なりはしないことを、蔵馬は疾うに悟り、そうしてその上で自らの肉を食わせたのだという事実。その事実はコエンマに激昂しかもたらさない。

 魔族であるところの浦飯幽助に対する監視は依然行われており、蔵馬も知るところである。但し監視理由はかつてと異なっていた。表向きは排除を目的として、しかし実のところ保護を目的として行われる行為。コエンマの厚意或いは好意以外の何物でもないことは明白であった。ヒトの世界に在るにはあまりに強大なちからは、だが人間界に居たいという幽助のささやかな願いと比べて、コエンマ個人にとっては取るに足らない問題である。

「正直なところを言いますとね、コエンマ。オレは幽助がヒトを食べる生き物になろうとなるまいと、どちらでも構わないんですよ」

「なんだと……?」

「ヒトを食べたことで、彼が食人鬼としての道を選ぶというのならば、それもしょうがないと思っていたんです」

 一瞬頭に血が上り掛けたが、それにしては蔵馬の口調と表情のアンバランスが気になり、冷静に台詞を思い返せば、彼はそういえばこんなことを言っている。

「しょうがない……ということは、だがそれがおまえの望みではなかったということか?」

 困ったような表情を深くして、人のカタチをした狐はやんわりと微笑んだ。

「オレは、本来カタチを持たぬモノです。あなたがた霊界人より、更に本能というものから縁遠い。遺伝形質にも狭義的には無縁です」

 本来在るべき蔵馬としての様相ならば、コエンマとて承知していた。だが今突如としてその話が何に関係あるのか、首を捻りながらも相槌を打つ。

「そうだな。おまえは体系そのものだ」

「遺伝子型を守るため本能が存在しているという考え方も、本能を守るため遺伝子型が存在するという考え方も、根本は同じです。生命に意味がある、という思想。生きていることに価値があるという幻想。生き物はそれに縛られている」

「まぁ、生きているものならそう考えるのが普通だろうな。それと幽助に何の関係がある」

「そうですね。でも、じゃあそれをオレが考えたら? オレはね、コエンマ。幽助に会いたいんです」

「……は?」

 己が何やら途方もなく奇妙な言葉を聞いたような気がして、コエンマの糸目がまあるく見開く。

「蔵馬が、生きている幽助に会いたいと思っているんです。これの、意味は?」

 そう言ってコエンマの眸を覗き込んだ蔵馬の眸は今、ロウカン色を醸している。森の翠。瞳に映るひかりが煌めいて蔵馬の呼吸を伝え、コエンマは狼狽の色を隠せない。

「何を……言っておるのだ、おぬしは。蔵馬なら、今も幽助に会っておるのではないか? 永遠に、会っていることも可能だろう……?」

 蔵馬の名に形を持った少年は、静かに笑んだまま言った。

「信じたくなりませんか、蔵馬がそんなことを考えるとね。何処かに本当に、染色体遺伝でもなく肉体的獲得形質でもなく文化的偏重でもない、意志の力とやらがあるのではないかと」

 遺伝型と表現型は別物である。よく遺伝情報の総称としての遺伝子と遺伝情報の表出の一形態であるタンパク質が混同されるのに近く、ミーム学的利己的遺伝子説と遺伝子還元論も混同されがちであるが、ミーム学に於ける遺伝形質には文化までもが含まれることも多い。要は、設計図なる情報そのものと、それの具現例であるところの生命体或いはその延長サイボーグとの、分離思考実験としての遺伝学である。端的にソフトとハードとファームの生命的な関係を考えるためのツールと言って良い。だが実際には生命を語る際、ハードを抜きにしては語れず、ミームは情報の聖性を唱えるに留まっている。

 「蔵馬」という存在は、だが或いはその聖性そのものである。情報そのものであり、生命体に使用されて初めて意味と実体を持つところの存在、それをこそ「蔵馬」と呼ぶ。植物の形成する広大なネットワークのアクセスポイントとして認識「される」農業神を、もし単一の存在として人間が捉えるならば、それをして妖狐というカタチとされる。

 本来ならば。

「その……身体に引き摺られているだけじゃないのか。いや、違うか、そんなはずはない、おまえは」

 彼が何の因果で妖怪及び人間をやっているのか、実のところはコエンマも知らない。それでも未だ彼の多くがネックワークを共有していることを、コエンマは良く存知しているが故に、彼を巡察として遣っている。「蔵馬」の使用方法としてはまさに正しく、正しいことを知っているからこそ、コエンマには蔵馬の台詞が信じられなかった。

 会いたいだのと。

 それは忘却と模倣を知る生物の持つべき観念である。

「というかちょっと待て、それとさっきの話とどう繋がる」

「人食は、まぁあの人の本能かもしれません。遺伝かもしれません。でもオレはあの人の、何も考えてないと見えるくらいに縛られていない真っ直ぐで力強い意思が大好きなんです。出逢ったときから、あのひとはそうでしたから」

「暗黒鏡の話か?」

「そんな幽助が好きなオレは、確かに本能だんて一絡げな言い訳を抱えてしまうあの人を見たくなかったかもしれない、だからヒトを食べさせるわけにはいかなかったけど、ヒトを食べさせようとしたのかもしれない」

「……わからん」

「ミームと文化はともかく、本能と意志は相反するものでしょう、名目上は。実際はそれが何処から来ているものであれ、人間にとって体験は貴重です。本能を肯定するにしても否定するにしても、それが自分の意志だと自ら認識するためには、ね」

 「蔵馬」が肉体よりも意思に重きを置くこと自体は、蔵馬自身の存在から考えて生物の感覚に照らし合わせても、コエンマにとてわからないわけではない。ない、が。

「……つまり、獅子千尋の、と言いたいのか。人食なんぞ大した問題ではない、と。それによって得られるもののほうが大事だとでも」

「コエンマ。あなたが最初に封印した妖怪のこと、憶えてます?」

 突如として方向を変えた蔵馬の言葉に、暫しの自失ののち意味を解して、コエンマは血の気の引くおとを聞いた。

 最初に魔封環を用いて封じた妖怪と言えば、彼にとっては忘れられない、忘れたくない、

「……なにを、何故おまえが」

「彼女が何を望んでいたか、考えてみてくださいな」

 そうして無邪気にも魔封環を取り上げて、玩具を扱うが如くに天にぽんと放り上げたその姿に、既視感を覚えてコエンマは目を細めた。

「信じてみたくなりませんか。あなたがたの意志や、オレの意志や、色々」

「信じて、……信じてどうなると、いうのだ……」

「あなたがあなたを独りで是認します。そうして」

「おまえは誰だ……ッ」

 いとけなくも掠れた叫びを受けて蔵馬は笑みを深くした。

「幽助が幽助を赦します」