自罪異聞

「結婚しよう」

 幽助を普通の男の子として扱おうとしない世界、彼を拒絶し排除しレッテルを貼り不良と名付ける、そんな世界を螢子は憎んですらいたけれど、戦う幽助を見て彼女は絶望にも近く感動したものだ、ああ普通の男の子でなくても受け容れてくれる世界を幽助は手にすることができたのだ、と。そうして螢子は迷う、自分はまだ幽助を日常世界に引き留めようとする存在であるべきかを。その時点、暗黒武術界の時点で彼はまだ、螢子にとっても彼自身にとっても人間でしかなかった。

 彼と彼女は似ていた。否、似ていると彼女は思いたかった。優等生というレッテルも結局の所、不良と大差ないと螢子は感じている。愛情ではない、依存と羨望と疎隔。幽助の苦しみと同じとは言わない、が、螢子とて傷付いていたのだ、学校なんて大嫌いだったのだ。ただ決して嫌いではない友人や先生も居るには居たし、何より学校をサボってまで行くべき処など彼女には思い付かなかった。ましてや行きたい処などなかった。

 彼女の世界は狭かった。学校を憎みながらも、学校の外に世界を知らなかった。大抵の中学生の世界などその程度の可愛らしいものだ、その点で言ったら幽助も変わらなかった。膿み倦ねていても抜け出せない世界は、だが一生続く世界の縮小図なのだという程度には認識していて、そこで生きられないのならば死ぬしかない。

 螢子は死にたくなかった。死にたくないと思えるほどには、彼女は周囲との関係性を生み出してきていた大人だった。幽助は、或いは死んでしまっても構わないと思うほどにしがらみの少ない子供だったかもしれないが、螢子は自分のために幽助にも死んでほしくなかった、だから幽助に学校社会での生き方を教えようとしていた。

 例えば毎日学校に足を向けること。例えば毎時間授業を受けること。例えば宿題をやってくること。たとえ心の中で教師に舌を向けていたとしても。

 それは螢子にとって単なるテクニックでしかない、だから螢子は優等生だった、そしてそれを自覚していた。疑問など、抱かない振りをしていたほうが要領よく物事を進められると、螢子は幼い頃から気付いており、抱える不満も不安も失望も、表面化させたことなどなかった。

 だから、螢子は幽助が好きだった。

 幽助に言う、「ちゃんと学校来なさいよ」、そうして彼が見せるほんのちょっとの喜色と、呆れ果てたような困り果てたような不機嫌なかおを、螢子は愛しく思っていた。はみだしたままで良いのかどうか、そんなことは当時の螢子にはわからなかったが、それで要領悪く自分のしたいこともいずれできなくなるような環境になることは、螢子には許せないことだった。いつしか大人になり、したいと思うことができ、しなければならなくなったとき、学校で培ったテクニックは必ず役に立つはずだ。そうできない弱い大人になることは、螢子のプライドとして許せなかった。したいことができないことを、まるで社会だけがすべて悪いのだとばかりに愚痴ばかり吐く、そんな大人にだけはなりたくなかった。

 そんな大人の象徴が、幽助を弾ことうする学校社会の教師達だった。彼等を憎む、それは螢子の学校に対する憎しみと同義だ。そうして幽助がその憎悪の中にふらりと気が向いたように入ってくるとき、螢子はようやくその世界を愛せる。彼の反発に自分を重ね合わせて幸福感を感じる、それは拙い感情だった。依存している、そうして彼に依存されている、それを感じることは螢子にとって幸せだった。

 かつては。

 人間社会で、それでも人間なのだから生きてゆかなければならないと、肩を寄せ合って生きていたはずの幼馴染みは、だがいつのまにかヒトならぬものとなってしまった。

 なら何だったのだろうと思う。ヒトでないところで生きてゆける人だったというのならば、彼を傷付けることを承知で彼にヒトとしての生き方を無理矢理にでも教えてきた、自分は一体何だったのだろうと螢子は思う。

 結果として、彼が本当に異邦人であったことは、彼にとって倖いであったのだ。それは螢子も理解している。理解しているからこそ、彼女は理解したくなかった。魔物になってしまったことに対しての戸惑い、或いは苦しみ、哀しみなどが、その僥倖に付随しないとは螢子も決して言わない。だがそれでも、この人間社会で社会を形成できなかった、学生時代から形成しようともしなかった彼の孤独を、螢子も抱えていた人ならぬヒトとしての彼の哀しみを、彼自身の出生の秘密が救ったことは確かだろうと螢子は思う。

 螢子を置いて。

 自分が異端であるなどということは、多分人間の誰しもが感じることなのだ。だがそれでも、所謂普通の人間は自分が真に異端ではないことなど知っているが故に、そこまで人間社会から外れたりはしない。外れることを恐れる、それは自分の帰る場所が結局人間社会しかあり得ないということを知っているからだ。

 暗黒武術会で螢子が感じた恐怖は、幽助のあまりに人間社会に帰属しまいとする態度だった。彼自身は純粋に戦闘が楽しく、或いは仲間を救うだけの力を得るため、戦っていただけかもしれないが、それは本当に人間という枠に彼が背を向けた瞬間でもあったのだ。しがみついてでも守ると言った彼の姿勢そのものが彼を、人間だったならば生きている限りしがみつかざるを得ない人間社会から乖離させていた。螢子の初めて見る、あまりにも圧倒的なちからだった。

 そうして彼は、本当にヒトではなくなった。ヒトでないからこそ、ヒトたらんとして彼は今、螢子に依存しようとしている。それは今の螢子にとってあまりにも絶望と区別が付かない。散々螢子を置き去りにしてそれが正しいとさえ彼女に思わせる剛さと凄絶さを以て闘いを続け、だが螢子が無理にでも納得して離れた今となって、ヒトを求めて幼子のように彼女との繋がりを求める。

「結婚しよう」

 なんて悪夢。

 妖怪虫を見付けて踏み潰した。ゴキブリを殺すのと何ら変わりがない。ありんこを殺すのと何ら変わりがない。妖怪が人を殺すのも、人が妖怪を殺すのも、多分に。

 その場面を見られた相手が蔵馬というのは、結構笑える偶然だと螢子は思う。異界のモノに触れるちからを幽助の影響で得てしまった螢子を見ても、蔵馬は何も言わない、言わないと螢子も確信していた。

 彼は突如として言う、

「もし幽助が、人間しか食べられない体質になったら、螢子ちゃん、どうします?」

 蔵馬の闇色に濡れた眸は今も変わらず優しく笑んでおり、この人はこの表情のまま人も妖怪も、そうして私のことも殺せるのだろうと螢子は思った。それは螢子もまた同様なのだ、無心に花を摘み肉を食べ生きている、ヒトとして。

 それでいて異界に憧れる矛盾。幽助の帰ることのできる場所。

 いつか自分が幽助を殺そうとするのではないかと思った。

「なぁ螢子、今すぐ結婚しよう……って言ったら、どうする?」

 そうして幽助は言う、こんなことを。螢子は確信する、ああこの子はヒトを食べたのだ。だからヒトを食べたくないのだ、と。

 ヒトであろうとする姿勢を、かつて螢子は本当に彼に対して望んでいたはずであったが、今、彼女はそれを彼に望めない。否、望んでいるからこそ、望んではならぬと心に誓う。

「ねぇ幽助。人間で居なきゃならないのは、義務?」

「え……?」

「人間で居たいと思うのはあんたの勝手よ、でもね、幽助」

 頬を撫でた。髭の剃り跡が螢子の指を撫でた。彼の身体は未だヒトとしての成長を続けている。彼の望みがそうさせているのだろうことは、螢子にしても想像に足る。

「幽助。人間で居たいというのならそれはそれで構わない、そのためにあたしとの結婚を軛にしたいと考えるのならそれも構わない、けどね。人間でなきゃならないなんてこと、もうあんたは考えなくて良いのよ、あんたには本当に別の故郷があったんだから、あんたは本当の異邦人だったんだから。あたしを食料と考えることもまた、あんたの自由なのよ。ねぇ幽助。昔は……あたしはあんたを普通の人間に留めたくて仕方なかった。あんたがあたしのいる場所から居なくなっちゃうのが堪らなく怖かった。予感だったのかもしれない。でもそれでも、人間の範疇である限り、人間は何処にも行けないんだ。だから人間は頑張る、あんな自我を壊すかのような場所でも、頑張らなくちゃいけなかった、あたしたちは。そうしてあんたにも頑張ってもらわなきゃならないと思ってた、頑張れないのならそれは、この世界でこの世界の住人として死んじゃうしかなくなっちゃうから、でも」

 螢子の頬に涙が伝う、幽助はそれを茫然と眺めている。彼はいつもそうだ、螢子を遠くから眺めて愛おしんでいる。

 彼は初めからヒトではなかったのかもしれないとさえ思えるほど、螢子にとってはいつも遠いひとだった。何故今になって、と思わないでもない。機会は既に逸している。螢子は既に昔の螢子ではなくなっている、そうして昔と同じ願いを抱き続けている。

「生きててくれるならそれで良いの、せめてそれだけでも良いの、だからあんたが人間しか食べられないっていうのならあたしの身体まず全部食べて」

「……なんで」

「なんで?」

「なんでおまえまでそんなこと。人間ってそうなのか? そうするのが人間なのか?」

 そんなことすら疑問に思うほど、この子供はヒトの中に何も見てはこなかったのだ。

 幽助はヒトならざるモノとなり、やっとヒトに興味を持ち始めたのだと螢子は考える。どちらの幽助を憐れと思えども、どちらにしろそこには、彼が異邦人であるという事実しか横たわってはいない。

「あんた莫迦? 知らない妖怪にだったら絶対食べられたりしないわよ。でもあんたがもし、人間しか食べらんなくなったのなら、あたしはあんたに生きてほしいから人間を食べてほしい。でも他の、特にあたしの大事な人間達は殺してほしくない。だから自分を食べさせたほうがずっと楽だわ。自己犠牲でも人間らしさでも何でもない、ただのエゴで、死んだほうがマシなときもあるってことよ。それだけ。複雑だけど単純なことよ、もし蔵馬さんや飛影さんが人間しか食べられない類の妖怪だったら、あんたどうしてたわけ? 餓死させるの? 逆にあたしが妖怪しか食べられない人間だったらあんたはどうするの? あたしを餓死させる?」

 彼はゆるく首を振った。螢子の言葉に対する否定ではない、生きていることそのものに対する否定的な気持ちからだろう。そう考える螢子こそ、首を振ってしまいたかった。

「蔵馬さんを食べたの?」

「おまえも……ホントに」

「昨日会った」

「……本当は、人間を食べちまうことになったとしても、割とどうでも良いと思ってたんだ。昔から動物も植物も食ってたし、それだって命を採ってることに変わりはねぇ。だから、自分が人間を食べる性質ンなっちまったとしても、それはそれで仕方ないかもしんねえって思ってた、でも」

 戸惑うように揺れる彼の肩を螢子は抱いた。

「でも」

「あたしは」

 見上げた空は泪に揺れて青かった。

「あたしはここ以外に持たないから、苦しくても死にたくなっても消えたくなっても、ここで生きる。幽助は? 生きるの、それとも」

 生きて。

 それはもはやさよならにも近い願い。