智慧の種子

 健康優良児気味に快眠を貪った幽助の身体は、朝の白い光を受けて、身体を形成する細胞の隅々まで素晴らしいスピードで直ぐ様覚醒へと向かう。ぱちり。音でも聞こえそうな体で開いた彼の目に最初に映ったものは蔵馬の、それはそれはぽよよんという表現の似合いそうな平和じみた貌。

 睫毛のはばたく音まで聞いて、蔵馬は幽助のまばたきを微笑で以て見詰めた。そうして口に上らせる。

「おはよう」

 まるで太平ないつもの挨拶。何処かわかっていない体でおはようと半ば反射的に返事を返した幽助はだが、次の瞬間には目を見開き飛び起きた。

 まるで昨日の再現のように力ずくで蔵馬を太陽のにおいのするシーツの上に引き倒す。引き千切らんばかりの勢いで服を剥ぐ。そこまでは消せずにあったうっすらと残る噛み痕に、子供はこの世の終わりのような表情をした。ああそんなもの気にしなくても良いのに。と蔵馬は言いたいが、言ったとしても今の状況では、本当に如何程でもないのだということなど伝わらずに、気を遣われていると思わせてしまうのだろう。蔵馬はただ、顔に流れ落ちてくる彼の意外にやわらかな黒髪を撫でた。

「髪の毛、切らなきゃね」

「……御免」

「慣れてるよ」

「違……ッ」

 彼の謝罪は散髪の手間に対するものではないと蔵馬も充分に存知してはいたが、どちらにしろ返答は変わらない。慣れている。

 馴れている。

 蔵馬の慣れていない事柄は、好奇心の強い蔵馬をして想像もできないほどの突飛で突発的な物事だけだった。例えば幽助との出逢いのような。

 そうしてそれは馴れきった蔵馬の感謝に値する。

「あのね? 幽助」

 何某かを口にし掛けた幽助の言を遮った。

「昨夜のこと、憶えてるんだ?」

「……憶い出した。だから」

「オレはそのとき、驚いてた?」

「え?」

「あのとき、幽助がオレを食べにきたとき、オレはそのことに対して、驚いてるように、見えた?」

 一言一句、ゆっくりと明晰に発音し、だが内容は遠回しだ。

 幽助に真実を悟らせるには、意外と嘯いてみせたほうが早く事実認識に至らせられるのだと、蔵馬が最近気付いたテクニックだった。彼の、所謂野生の勘に引っ掛かりやすくなるらしい。それは蔵馬の目に微笑ましく映る。

「……おまえ。まさか」

 眉を寄せてまるで苦しいようにも幽助は考え込んでいる。驚愕していたように錯覚されていたらそれはそれで面白いと思わないでもないが、幽助は意外と冷静に状況を把握していたようで、実際蔵馬は昨日の彼の行動に何一つ、驚きなどしていなかった。

「うん」

「初めから、こうなることがわかってた? だからおまえ、だった?」

 感覚で掴んだ事柄に対する頭の切り替えと呑み込みの早さは、本当に天才的だと感心する。わざわざ食べにきた先が何故蔵馬でなければならなかったのか、彼はその結論まで正しく導き出している。

 だがそれが同時に蔵馬に対する欄外を宣告していることにまでは、幽助は絶対に気付かない。自分の感情を論理的に把握することを、幽助は極端に苦手としている。ひょっとしたら自分を理解しないことで、脆い精神を守っている部分もあるのかもしれないとさえ蔵馬は考えている。

「騙してたんだから、オレのほうこそ謝らなくちゃね。御免。でもやばい薬は使ってないから安心してくれて良いよ」

「……おい」

「本当に、気にしないでほしいって、意味なんだけど」

 蔵馬が予測し且つ前もって準備していなければ、幽助にとって蔵馬は真っ先に食べにくることなど考えつきもしない相手だと、たった今言われたばかりだ。それは取りも直さず蔵馬にとって自分が、たとえ傷付けてしまったとしても幽助が絶望する必要のある相手ではない、という意味と同義だった。幽助にとって気にする必要もない事柄と定義付けられることに、蔵馬は心底安堵する。もし彼が絶望しなければならない事柄が存在するとしたら、それは蔵馬を食べたことに対してではなく、

「なら、おまえはどう考えてるんだ。オレはこれからも人を食べたいと思うと考えてんのか? それでもおまえは気にするなっつーのかよ……ッ」

そう、こちらのほうだ。

 長く吐息したのち、ゆったりと口を開いた。

「オレは生き物の本能をあまり信じていない、幽助。意味がわかる?」

「そりゃ妖怪が……オレが、人を食べるのを止められないって」

「違う」

 組み敷かれたままの体勢で話し続けるのにも疲れ、彼の身体を押し退けるようにして起き上がり、シーツの上で胡座を掻く。幽助もそれに倣ったのを見て、思わず笑みが零れそうになった。

「肉に依存する所謂本能という代物を、止めることができないとヒトや妖怪が自虐的に信じているから、オレは生き物の本能を信じてない、という意味だ。幽助、想像妊娠を知っているか?」

 飛ぶ話に幽助は困惑した表情を隠さない。知んねぇ、と短く返答が来た。

「妊娠を切に望む、或いは極端に恐怖する、そういう女性が、実際には妊娠していないにもかかわらず、無月経や初乳の分泌などの症状を身体に引き起こしてしまうことがある。それが想像妊娠だ。人間が、意志の力で身体を変化させられるという、わかりやすい例だな」

「……で?」

「君がヒトを食べることは、或いは本能かもしれない。そんなことはオレにわかるはずもない。だが、仮にそれが君の本能だったとして、君はどうしてその本能を止められるとは考えないんだ。どうして本能に屈して当然という思考に屈しているんだ」

 幽助の、息を呑んだ音が聞こえた。

 ソサエティを形成しようとする性質の強いヒトという生き物にしては、彼は可哀相なほどに思考の切り替えが早い。必要があって周囲から取り入れたはずの、現在は無駄となった過去の己の公理を、あまりにあっさりと切り捨てることに幽助は長けている。端的にヒトの世の常識を内面化していないと言っても良い。それはヒトの形成する江湖に幽助が染まっていないことの証明だ。人間社会に馴染めない、ひとりに慣れた子供の精神構造だ。

「幽助。君は殊戦闘能力に於いては自分に制限を設けたりしない、立派な人だ。ヒトであることからも魔族であることからもかなりの面で精神的にとても自由で在る。なのに、どうして生き物であることからは自由ではないと、思い込んでいたんだ」

「……できるのか」

「できる、できないの問題ではないな。するか、しないかの問題だ。こう言えばわかるか? もしオレが、おまえにその決心をさせるために、最初に螢子ちゃんを食べるように仕向けたとしよう」

「……ッ」

「そうしたらあなたはオレのこんな言葉も必要とせず、自分でその意志に気付けたろう?」

 まるで憎悪のような色が一瞬だけ幽助の眸に煌めいた。それは刹那で、次の瞬間には何かを哀しむかのように眉は下がり、やがて顔も垂れて、その表情は蔵馬から隠された。

「幽助?」

「……いや。螢子に向かわないようにしててくれて、サンキュな」

「別に感謝されることじゃないと思うけど、人として当然のことでしょう? ああそうだ幽助、人間の歴史の長さって、知ってる?」

 この自分が人として、などとちゃんちゃらおかしいと笑いを堪えながら、蔵馬は言葉を続けた。顔を上げた幽助には既にして先程の色はなく、微笑を湛える蔵馬をただじっと探るようにして見ている。

「中国四千年の歴史とか……?」

「人類の、って言うべきだったかな。人間を食べなくたって妖怪は生きてゆけるようにもなるよ、幽助」

「え?」

「アウストラロピテクスの出現だって、早く見積もっても四百万年前ですから」

「人間ってそんな大昔から居るんか」

 蔵馬の何百分の一も生きていない若い精神。

「逆です。そんな最近に出てきた生き物なんですよ、人間はね。つまり妖怪の歴史はもっと長い。そうして魔界が人間界の存在に気付いた時期は、もっと遅い」

 やっと話の流れを掴んだらしいこどもは、首を傾げながら視線を天井に遣った。

「ってーことはつまり……昔の妖怪は人間なんて生き物知らなかったんだから、当然食べてなかったってことか?」

「そのとおり。妖怪が人間を食べるのはまぁ、人間がダチョウやワニの肉よりは、鶏肉や牛肉を好んで食べるようなものです。身体を覆う毛も少なく、肉も柔らかく、味も彼等の口に合った、そして何より、同胞や魔界の動植物を食べるよりも、人間は弱く殺しやすかった。それだけのことだったんでしょうね、最初はね」

「さいしょ……?」

「そう。例えばコアラがユーカリしか食べなくなったように、その環境に適応せざるを得ないのなら、するんだよ。できなければ滅びるだけだ」

 魔界の住人の力の二極分化が進んできたことが、人食の最たる原因だろうことは想像に難くなかった。今もその傾向は残っている。弱い妖怪の食べる対象として、人間界の生き物しか残っていなかったことが本当のところだろうと蔵馬は見ているが、今は幽助に妖怪に対する同情心など植え付けるつもりはない。

 ふと、幽助が笑みを零した。

「そういえば親父が似たようなこと言ってた」

「雷禅?」

「そう。おまえはオレの子供だが人間を食べたいと思うかって訊かれてな。人間を食べる妖怪も過渡期なんだろう、って、そんなようなことを」

 人間を愛した件の妖怪を憶い出し、蔵馬は胸に暖かいものが溢れるのを感じる。それは希望にとても近い感情だ。

「そうですか……雷禅がそんなことを」

「すべての妖怪が、人間を食べなくても済む日が来んのかな」

「あなたのお父さんもお母さんも立派な人で、オレは本当に大好きでしたよ。それが希望です」

 目を丸くして惚けたように蔵馬を見詰めた幽助に、今度こそ蔵馬は盛大に吹き出した。

「ちょっと待て、オレのお袋って」

「この話はここまで。髪の毛切ろうね、幽助」

 これ以上蔵馬には話す気などないのだと悟り、幽助はぐるぐると仔猫のように唸っている。

 そんな幽助を放り出して、相も変わらず笑いながら、蔵馬は散髪の用意をして彼を椅子に座らせた。足許まで伸びた長い髪を適当に梳り、じゃきりじゃきりと無造作にも見える手付きで切ってゆく蔵馬をこそ、幽助は面白そうに鏡のむこうに見ているようだった。面白げに、そうして物言いたげに。その彼の様子に蔵馬は気付かないでもなかったが、幽助が口にしないでいられる程度の物事ならば、無理に聞き出す道理は蔵馬にはない。

「はい、できあがり。シャワー浴びていらっしゃい」

「……なぁ蔵馬」

 ようやっと幽助が話しかけ、さぁ何をどう切り出してくるのかと蔵馬はびっくり箱を開ける気分で彼を見詰めた。まるで子供になったかのように錯覚する。

「オレ、もしまた本能に逆らえなかったとしたら、おまえのトコ来るようになってんの?」

「一応、そうしたつもりですけど」

「……そう」

「君が自分の意思で人間を食べたいというのならば、オレはこの身体なんか全部君に食われてしまって構わないよ? まぁオレの肉なんか食べたくもないだろうけど他の人より」

「おまえ」

 遮った幽助はそのまま暫し表情をなくしたかおで押し黙っていたが、不意に蔵馬の胸座を掴み、睨め付けるようにして眸を覗き込んだ。強い光だ、蔵馬はそれに酩酊と言える感慨を覚え、そうしていつも自制をなくした状態にも近くなる。悟られたことはないと思っていたが、本当に幽助はただ勘のみで、蔵馬の本心を引き出す方法を心得ているのかもしれなかった。

「……はい」

「さっき、最初に螢子を食べさせるようにしたら、っつってたな」

「すみません、喩え話で気分を悪くさせてしまって」

「違う」

 屹然と言い切られた。何かが崩れていると蔵馬は感じる、それは蔵馬の崩壊の音ではない、幽助のバランスが何処か崩れ落ちているように感覚し、これは何だと自問する。答えはない。

 幽助と相対するとき、蔵馬の疑問はいつもこうだ。不可思議な懐疑、疑義は大きく膨れ上がるばかりで蔵馬に答えを与えてはくれない。自分が自分に答えをくれない状況になど蔵馬は慣れておらず、いつも答えをくれるのは幽助で、蔵馬はそれに堪らなく疼くような気分になる。

「それは、螢子だったらオレがそうなるって、おまえが思ってるってことだよな。だとしたら、おまえだったら、オレがおまえを食べて殺しちまったとしても、おまえだったらオレは傷付かないと苦しまないと、おまえが、そう思ってるっつー意味だよな?」

 不器用な言葉、だがその認識は正しいと蔵馬は思う。その単純な事象の何に、幽助が拘っているのか蔵馬にはわからない。

「……幽助?」

「おまえとは何でか、おまえとだけは何でか、最初から今迄ずっと、殴り合ったことなんかなかったよな。したいとも思わなかった、喧嘩しようなんて思ったこともなかった、喧嘩の必要があるなんて考えもしなかった」

「なかったですけど、ゆうす」

「蔵馬、くらま、多分、おまえとはそこから始まったんだ、なんで」

「何が……始まったって?」

 微笑んだ幽助のかおは、蔵馬の知らないものだった。

「初めて、おまえの身体を傷付けたのが、こんなだなんて」

 もう食べない。

 そう呟いて疵痕に擦り寄るようにこまかく震えだしたこどもを、茫然と眺めて蔵馬は途方に暮れた。

 足許には、彼の削ぎ落とした魔族のくろい髪。