人魚姫のカノン

 まるでわらいだすかのように飢えたひとであった。

 突如として訪れた彼の気配はいつになく薄い。妖気も霊気も一般人以下で、蔵馬は本当に彼が生きているのか確認したくもなったが、伸ばした手が触れる前に、けもののちからで手首を捕られた。引き倒される。フローリングにぶつかった肩の痛みにこえを洩らした次の瞬間には、手首を離れた爪が肩に食い込み息を止めた。

 ああ遂に来たのか、と冷静に思う。不慮の事態には至らず、予測の範囲内に収まってくれそうな現状に対し湧き上がった、獰猛な安堵。

 蔵馬はそこまで生物の本能について楽観的ではなかった。彼が果して本当にヒトを食べずに生きてゆける保証など何処にもなく、蔵馬はもう大分前からそれと気付かれることなく、薬と催眠を以て彼の食欲に指向性を与えていた。即ち、万が一にも彼が人食欲求をもよおした際に、他の誰でもなく蔵馬の許へ駆けつけるようにとの暗示。

 妖狐の肉体は古来より食せば邪気あたりを防ぐと言われ、珍重されてきた。本当にその薬効があったのかどうかは不明だが、人間が蔵馬にそれを求めてきたことは事実であるし、逆に今のこの肉体も、妖怪の求める人間の身体から未だそこまで懸け離れたものでもない。果して蔵馬の身体が魔族と化した彼の邪気を鎮められるものかどうか、蔵馬自身に知れずとも、少なくともヒトとして彼の食欲を満たす相手と、ヒトならぬものとして彼自身の言い逃れの口実にはなれるだろう。

 この子にヒトを食べさせてはならないと思う。ヒトのためではない。ヒトを食べて誰より傷付くであろう、このひとのためである。

 そう思い、ゆびをのばした。魔紋の浮き出た頬を撫ぜる。獣は首を振ってその細くつめたい肉に無邪気にくちを開き、躊躇うことなく手の途中からを噛み遣る。鮮血と激痛に、蔵馬は人間の肉の脆さを実感した。

 咀嚼。なんと無心な姿であろう、感動にすら値する。もはや蔵馬から離れた指をしゃぶり、かじりつき、骨と歯が石膏の掠れるような音を立てるのを、痛みに遠のきそうな意識の向こうに聴く。今は長く伸びた彼の髪を、抱き寄せるようにしてもう片手で撫ぜながら、ひとりの女を憶い出した。

 日本で言うところの鎌倉時代に当たるのか。黄泉を殺し果せたことも確認せずに蔵馬が何百年か振りに人間界へ来、暫くしてのことであった。何やら憶えのある妖気に惹かれて辿り着いた場所には、一人のうら若いおんな。人間の女が妖気を纏っている不可解さに、蔵馬は興味を惹かれて姿を見せた。

 おおきなお腹を抱え、額に脂汗を浮かべて、床の上でからからに乾いたかおが向く。おんなの落ち窪んだ眸に銀色の狐が映るのを蔵馬は見た。

「狐か。飼われモノではないな。何用だ」

「珍しいものを見に」

「吾のことか」

「おまえを映すために」

「野狐でもあるまい」

「善狐でもないな」

「自ら吾が管に入る気かえ」

「そなた、管師か。それよりはおまえの中のほうが心地好さそうだ」

「ぬしのいろ、月に好かれておるなぁ……陰の気だ。寧ろ入れられるほうだろうに」

「おまえもだろう」

「ヒトや御遣いに吾は無理だな。ぬしと同じ、陰に寄りすぎている」

 苦しげな息の下でくすくすと笑う。成程腹に宿しているのはヒトではない、魔物の仔なのだと、かの妖気の故を悟った。

 うつくしいおんなだと蔵馬は思う。餓えた眸が黒々と濡れている。平常であっても造形はこの時代の美人には当たらぬだろうが、どの世の評価をも蔵馬が必要とすることは既にしてなかった。

 笑みの気配を残したままで女は言う。

「仔が見たいのか。これはまだ人間だぞ」

 見たい。そうなのかもしれないと蔵馬は思う。歯を持った膣の奥、おんなのからだの中心で生まれつつあるいのち、やわらかな殻の裡でやわらかなものが育つ、その想像はつめたい銀の狐にひどくやさしい。

「苦しいのか」

「産んだら死ぬだろうな」

「狐の肉でも食うか?」

 これは女には伝わらなかったらしい、伏したまま小首を傾げる仕種は少女めいて無防備だった。

「妖狐の肉は人間に効くらしい。さんざ人間に人間を食わされて人間に食われたぞ、真偽の程は知らんがな」

「人魚の同類か、大陸の瑞獣。生憎きれいな肉のほうにはとんと縁がなくてな。毒ばかり食ろうておるところに、ぬしの肉はきつそうだ」

 おんなはわらった。

「そのいろで肉のある身とは。嗚呼ならばもし、もし先の世でぬしが未だ肉のある身であったならば、この仔でありこの子でない、いつしか生まれる彼奴の仔に、できれば身を与えておくれ。その仔が飢えを訴えていたら、綺麗な綺麗な狐、どうか優しく相手をしてやっておくれ」

 夢見るようにおんなは言う。死にかけた肉体が正気を失いかけているのかもしれない。生きかけたこころが人食い鬼を憶い出しているのかもしれない。

「而して今その子供さえ産めるのか」

「産むさ」

「やはり食え」

 身体を曲げてくちを脇腹に持ってゆき、無造作に肉と毛とを噛み切った。けもののくちでくちづけて、にくを咽喉の奥に押し込める。おんなが吐いたあえかな呻きを、蔵馬は心底愛おしくおもう。

「ほんに狐が何の気紛れなのだ。生まれたこの子を食す気か」

「女、そなたの見立ては正しい。野狐ではない、オレはもうヒトを食う必要がない」

「? にくが」

「天の神は腥かったから、魔界に降りて肉を得た」

 おんなが目を丸くしたのに、してやったりと口角を上げた。変化して妖怪のからだとなり、枕元に腰を下ろして汗に張り付く黒髪を撫ぜる。幼子の表情のまま、ぽつりと唄うように女が零した。

「……天狐、ぬし、妖気は弱いなぁ」

 肩を竦める。あの男の妻なのだとの確証に、これは面白いことになっていると蔵馬は薄くわらった。

 何故肉が必要だったのだ。女が問う。お陰でおまえに子供を産ませることができるな。狐が応える。

 妖狐は出世魚と同じである。蔵馬の格までゆくと、本来ならばもはや肉体を持たずして天を駆ける。そうして三千年を生きたのち、神と同化しようという時分にもなって魔界に堕ちて、赤子同然で生きることを選ぶ狐など普通ではない。魔界の瘴気に肉を鎧としても、その裡にある大半は未だ神気に近かった。

「汝、我が守護を授けん」

 蔵馬の肉を食らった、この女に天界はもはや手を出すことができなくなるであろう。

 おんなが神に背を向けたままで逝けることを希んだ、銀狐のそれはもしかしたらとても祈りに近いものだったかもしれない。

 腿のやわらかな部分を食われながら、蔵馬は茫洋とそのおんなを想った。あのこどもだからと思わないでもないが、生憎と蔵馬は運命など欠片も信じてはおらず、魔界での再会の偶然には大いに笑ったものである。かつて蔵馬の施した呪は完璧に近く、霊界どころか蔵馬自身にも子供の行方など追えず、それでも蔵馬は彼と出逢い、彼のそばに居た。彼に今、我が身を分け与えるのは何処までも、ただ今の蔵馬の意志でしかない。

 やがて脚を嬲るのにも飽きたのか、身を起こした彼の大きく開いたくちが咽喉許に襲い掛かる。頸動脈を噛み切られたら流石にやばいだろうかと何処かのんびり考えもしたが、けものは蔵馬の首筋に口唇と歯を軽く当てた、まるで愛撫のような仕種で突如として固まった。固まっている。動かない。

「……幽助?」

 彼がここに来てから、蔵馬ははじめて声を掛けた。

 ぜんまいの止まりかけたオルゴールの動きで上げられた彼のかおは、呆然と恐怖に染められている。

「……ら……」

「幽助」

「くらま」

「大丈夫だよ。君は何も」

「くらま」

「何かをしたというのなら、ただ生きただけだ」

「くら、ま。……あ。あ、あああ」

「あなたが生きていてくれてオレは何より嬉しい、幽助」

「ああああああ!」

「ゆうすけ」

 そうしてまるでこちらが狂気であるかのように涙を流して失うように意識を閉ざした、子供を母親のようにやさしくやさしく抱いて蔵馬は、己の肉体の回復にのみちからを注ぐ。目が覚めて、この幼い子供が自らを恐れたりしないように、ただそれだけを気遣って、蔵馬は三界で最もよわく弱いヒトの肉を癒す。

 ふたりの閨には血のにおい。己が生きている、ということを随分と久し振りに憶い出し、魔王となったヒトを腕に、蔵馬は神に向かって微笑んだ。

 まるで泣きそうに満たされたかおで誤算を抱き締めた。