静かの海

静かの海

 完全版の宣伝で、2巻が蔵馬だったのにドびっくら扱いて描き殴ったものです。

 1巻、幽助なのは順当ですし当り前ですし前々から宣伝されてました。が。

 2巻、順当にいったら桑原君だよねぇ……?

 ここで冨樫氏の思惑を推理してみる。前提として、完全版は2巻ずつ纏めて発売される、ということを踏まえて。

  1. 幽蔵或いは蔵幽だということを冨樫さんがアピールしたかった(死)。
    • ……冗談です、多分(え)。
    • どちらかというと冨樫さんは幽蔵だろう。ていうか男の人って意外と二次元の少女めいた美少年好きよね、ふたなりとかさ…(爆)。
  2. 最初の発売で売れておかないとという販売戦略。
    • 当時の人気としては飛影のほうが上だったが、今は蔵馬のほうが上くらいはご存知だろう流石に。
    • まぁこの理由が1番妥当な線だろうな。
  3. オープニングの画面効果を狙って華やかな人を選出。
    • そうすると3、4巻は地味になるんじゃ……(おい)。
    • てゆーか華やかすぎ。薔薇の赤と制服のピンクと髪の毛の紫……。
  4. 3、4巻で飛影と蔵馬を並べたくなかった。
    • ネタは提供しても、やおいを煽る真似はしないだろうきっと。
    • 多分に蔵飛というカップリング、というより飛影受だろうか、を好むのは少女特有の感性で、蔵馬受に比べて、あまり男性には理解されないものだとは感じる。

 与太話。

 蔵馬のことを「理想」と称する少女は多い。それは(蔵馬受の場合多くは)「なりたい自分」としての理想である(蔵馬攻は多分後述のほう)。に比して男性が蔵馬を「理想」と呼ぶとき、それは(もし彼が女性だったら)「パートナとしての理想」という意味になる。この違いは大きい。男性にとっての「なりたい自分」としての理想は、寧ろ飛影のほうだろう。と蔵飛が男性受けしないだろう理由を推測してみる。蔵受好きな人は結構居そうだけどねぇ。おんなはこわい、とおとこは言う。それは女の考えていることがわからないからだ、ならばわかることのできる、わかってくれる(と錯覚できる)同性が女性の身体を持っていれば、それに見紛うほど美しければ、確かにそれは「理想」であろう。男性にとっての蔵馬が理想という言葉は多分にそれだ。冨樫氏のキャラクタは女性恐怖症を疑える人が多いのだが、そういう男性にとっては確かに化けることもできる蔵馬は都合が良いだろうとは思う。まりあ受けと蔵馬受けって似てると思…ッ(死)。

 冨樫氏が、もしカップリングにするなら幽助と蔵馬というようなことを仰言ったそうだが、幽白でやおいなどまるで考えていなかった当時、それも当然の帰結だなーと思った記憶がある。蔵馬がそういう意味での「理想」たり得るならば、(多くの男性にとってそうかは知れないが、少なくとも冨樫さんにとっては)幽助が「なりたい自分」としての「理想」たり得る(だろう)からである。……うわー、そんな冨樫さん萌え(おーい)。

(……そうか、ようやっとこういうことを言語化できるようになってきたから、今更幽蔵なんてのにハマれたのか;;;)

 さて、ではこの理論で行けば、少女にとっての(全き男性である)「パートナとしての理想」が飛影なのではないのか、と考えられなくもない。それは一部真理を突いているだろう、だがそれでも少女が飛影受を好むところに、男女のセクシャリティの問題が出てくるのだ。

 それは少女がやおいを好む理由そのものである。少女は「少女の自分が嫌い」であるが故に、男性性を「なりたい自分」としての理想と同時に「パートナとしての理想」に置くことができるのである。それは形こそ違えども、同義である。「なりたい自分」としてのネコ役の少年の相手は当然男性であるし、「パートナとしての理想」としてのタチ役の少年の相手もまた男性なのだ。或いは「なりたい自分」としてのタチ役と「パートナとしての理想」のネコ役でも同様である。どちらの理想をどちらの立場に持ってゆこうとも、そこに少女の嫌う少女は存在しない。それが重要なのである。

 だから男性にとっての蔵馬受と女性にとっての蔵馬受は意味が違う。男性にとってのやおいに当たる産物ならば、それは男性の描く少女同士の百合ものに見るべきであろう。ロリコンでも良い。社会に押しつけられる男性性を否定せずにはいられない男性の見る夢である。少女に自分と理想を投影しつつ、彼等はそのとき男性性を離れているそうである。それこそまさに、少年に自分と理想を投影して少女から逃避している、やおいそのものではないか。

 だから飛影受けを男性に認識させるには、「格好良く勇ましい女の子のネコ役を好むようなものだ」と言えば良いかもしれない。綾波攻めアスカ受けみたいなものか?(笑) 別にアスカ×レイでも全く関係ない。そんなことは問題ではないのだ、ということが重要なのだ。

 女性が女性性を憎むように、男性もまた男性性を忌避せざるを得ないところまできているのだろう。だからやおいを好む女の子には、冨樫氏のキャラクタは安心感があると思った。女の子が男の子を恐れるように、(少なくとも初期の)冨樫氏の男性キャラクタは女の子にコンプレックスを抱いているように見えるからである。異性に対する恐怖は、自分の性に対する嫌悪にとても近い。そのコンプレックスはまりあや蔵馬に顕著に現れているように見え、そしてまた、まるで鏡に反射するように読者に跳ね返ってくるのだ。

 って、1だとか4だとかの理由が本命と言いたいわけではありません、別に。ただどれも一理はありそうかなーとは思わないでもない程度で。