完全版・第一巻

act1. さよなら現世!!

「コラ、ガキ。危ねーだろっ、ここはけっこー車が通るんだぞ」

 記念すべき幽助初登場(主人公なんだから当り前だ)の話。この話は何度読み返しても涙ぐんでしまう。このまま死んでも良い、と言えてしまう、たった14年しか生きてはいない男の子を思って。

 若い子のほうが思い切りよく死ねてしまうのはわかるのだ。しがらみが少ないということは潔いということだ。大人はそれを若気の至りと言って蔑んだり青春と言って尊んだりするものだが、どちらにしろそれは過ぎ去って取り戻せないものに対する郷愁だ。恐らく、幽助のように幽霊のままでも良い、死んだままで良いと言える資質は、14の子供なら誰しも持ち合わせているものなのかもしれない。わたしも当時はそうだった。あの台詞を吐けた幽助は、多分に特別でも何でもない。だからあの台詞を雑誌で見た当初、まだわたしは成人前だったが、そのときは取り立てて何の感慨も抱かなかったのだ。

 しかし、既に大人になってしまったわたしは、この世界にしがらみを色々と作ってしまったわたしは、当時何とも思わなかった幽助のそれに、どうしようもなく切なさを覚えるのだ。ヒトの抱えるこのしがらみは、決してこの世界で生きたいと望むことと同義ではなく、この世界で生きたくない、しがらみ故に死にたいと思うこともあるからこそ、その幽助の潔さにどうしようもなく憧れ、そうしてまた同時にどうしようもなく哀しみを抱くのだ。この切なさは生きていることそのものである。そしてこの理論で行くならば、まだ幽助は生きてさえいないことになり、その彼の死に様と誕生にわたしは泣くのである。

 このときの彼はわたしのこの、生きることの切なさを知らない。生き返ってもロクなことをしない、生き返ったら周りの迷惑になる、と言った子供は、人間皆がそのような部分を持ち合わせ、それでも誰かに必要とされて必要として世界に連結して生きていることを知らない。知らないからこそ、自分ひとりが悪者なのだと、自分ひとりが生き返ってはならない者なのだと、思うことができる。それはとても淋しいひとりぼっちのこどもの思考ではあるが、その一方向からの見方が故に、彼自身は愛されることを知るが故の淋しさを知らない。何と透き通った孤独。ひとりぼっちの孤独も知らぬ孤独。淋しいと感じることもできぬ、ひとりという現象。

 だが彼は死んだことで、自分の居ないところで、自分の居ないことに泣く、幼馴染みや母親、友人、先生、そんなことに初めて気付いてしまったのだ。自分が世界の何かと繋がっているという現象に、既にこの世界にしがらみを作ってしまっている事実に、愕然と気が付いてしまったのだ。愛されていることに気付いてしまったのだ。それまでの愛を知らぬ孤独は牙城を崩し、彼は愛されている己というものを自覚せざるを得なくなってしまった。

 彼は恐らくこのとき、物心ついて初めて淋しいと思ったのだ。淋しいからこそ、淋しくなりたくなくて、生き返って誰かのそばに寄り添うことを望むことができるようになったのだと、そう見える。それは彼の誕生である。その、息もできなかったこどもと、そのこどもの生誕に、わたしは涙する。なんといとおしい。

 って、うわーん、これじゃ感想じゃなくてただのラブレターじゃないかー!(泣) は、話を順を追っていこう;;;

 10日振りに学校に行った幽助は、螢子をしてこう称している。「悪霊みてーにまとわりつきやがって」。のちに彼は、夢枕に立つ親しい相手を思い浮かべるに際して、母親と螢子しか頭に思い浮かべなかったようだ。つまり彼には、つきまとわりついて「くれる」幼馴染みとつきまとわりつか「ざるを得ない」母親しか、親しい人間が居なかったということになる。桑原にしろ竹中先生にしろ同様である。幽助がつきまとっていたのではない、彼に周りがつきまとっていたのだ。そして彼はそれを疎ましく思っている、本心がどうであれ表面上は。

 さて、ここで幽助の従兄弟を騙ってカツアゲを行った生徒達の描写が出てくるのだが、ここが興味深い。幽助を目の前にしたときの生徒の態度は、確かに「超不良」に対する恐怖に満ちているように見えるのだが、それは決して「浦飯幽助という存在」に対する恐怖ではなく、「浦飯幽助という人に振るわれるだろう暴力」に対する恐怖だということが、ここで露呈する。幽助の存在自体が怖ければ、決して彼の従兄弟を騙ることなどは怖くてできまい。バレなければ怖い相手ではない、と裏で陰口を叩く生徒達の幽助に対する態度は、恐怖と言うよりは軽蔑のようである。否、寧ろ忌避の視線と言ったほうが良いだろうか。ふれてはならないケガレに対する態度に、あれはとても近い。幽助は彼等にとって荒ぶれるカミだと解釈しても良さそうである。祟らないよう崇めて祀って、自分達がひどいことをしているからこそ荒ぶっているのだと知るが故に恐怖する聖なるケガレ。

 それに対する幽助の反応はとても淡々としている。自分を利用した生徒達を咎めるでもなく怒るでもなく、ただ状況をそのまま受け止めて効果的に自分の最も益になるだろう行動を取っている。わたしは幽助という人間を、蔵馬よりもずっと合理的で理性的な人間だと思っているが、それは多分に螢子の不合理な生真面目さと対を為している。螢子の非合理的な意地については後述。彼女のために身につけたものかどうかは知らないが、とにかく幽助はまるで蔑まれる自分に興味がないかのように、自分を大事にしないことで利己的な合理主義を貫いている。否、貫いているなどと意識的なものではあるまい。そうするよりないほどに、彼にとって腫れ物扱いされることは日常だったのだろう。

 ここで学校をサボろうとしているときの竹中先生の態度も興味深い。「帰れっていわれたから帰るんだよ」「どーせまた悪さしたんだろーが」「なにもしてねーよ」「……。よし、その話もゆっくり聞こう」。他の先生がただ「おまえが悪い」と切り捨てるだろう態度に対し、竹中は幽助の言葉を信じ、話を聞こうとしている。実際の態度も悪いとしても、それ以上に理不尽な扱いを受けていることを、多分に竹中はわかっているだろうが、幽助は彼の手も決して借りようとはせず、学校を出る。ひとりで出るのだ。

 そうして幽助は学校を抜け出、道路で遊んでいる子供に危険だからと注意を促す。誰にもまとわりつかない彼が、である。上記の蔑まれる日常と併せて考えると、周囲の人々を同じ嘲笑の渦に巻き込みたくないから自ら人間につきまとうことなく離れていった、と取れなくもない。だから彼は自分とは何の関係もなくこれからも関係を築かないでいられるだろう通りすがりの子供には、こんなにも無邪気に親切にできるのではなかろうか。

 その子供をかばって幽助は死ぬ。死んだ自分の立場を、ぼたん曰くものわかり早く理解し、助けた子供の心配をし、思い残すことはないから地獄にでも何処にでも連れてってくれと言う。

 「地獄にでも」。この後幽助は言う、「いいや、幽霊のまんまで。生き返ったってどーせロクなことしねーしさ」。ロクなことをしてこなかった地獄に逝くべき魂、彼は自分の人生をそのように認識しているのだと知れる。その上で、他人に、そして自分にさえ否定される生き方を、彼は変えようとはしていなかった。変えたかったのか、変えられなかったのか、変えようとも思っていなかったのか、少なくともヒトにふれられないことに馴れてしまったあとなのだろう今からは、断定はできない。ただ、「ロクなことしねー」彼が最後に遂げた所業が、ちいさな子供を救うことだった、それだけが事実である。

 あ、駄目だ泣く……(泣)。最初からこのペースでどうすんのよワタ死;;;

 んでまぁ、初めの語りに戻るわけだが……。生き返る試練を受けたいと思った最後の最後での決定打が、温子の涙でも螢子の嘆きでもなく、助けた子供の有難うだったというのが、何とも。ずっと周囲にあった近しい人間の、義理かもしれない愛情をなど、この段に至って未だ彼は信じていないのかもしれない。自分を知らない人の、何も知らない幼い子供の、そんな言葉のほうが彼には届くのだ。届いてしまうのだ。……哀しい。

act2. 復活への試練!!

「バーカ関係ねーじゃねーか、そんな……つまんねーことで……」

 閻魔大王に会うというのでビビる幽助。結構小心者だなコイツ(笑)。しかし大人になればわかるかと思ってた専門用語が未だわからん、「ワンパン」って何ですか。パンはパンチの略だろーか。しかしワンはOneじゃないよなぁ、ワンパン一発っつってんだから……謎だ。幽助、意外と言葉知ってます。場立ちなんてさらっと出てこないよ普通の中学生は(笑)。

 しかしここでも喧嘩なのか。喧嘩に勝てることが彼のアイデンティティなのか。閻魔様の機嫌を損ねて殺されるよりも喧嘩で負けることのほうができないことかオマエは。そこまでアイデンティティの欠如に繋がることか、喧嘩が。螢子さんがあんな貌してるときにそれか。

 幽助が生き返るために受けることとなった試練は、霊界獣の卵を孵すこと。のちに幽助は、その霊界獣の命を慮って自らの命の危機を脱する。結局魔族になろうがまるまいが、あの子は常に螢子を置き去りにしているのだ。ちくしょう。

 ところでコエンマがここで「霊体は心そのもの」とか言ってますね。ありゃ。じゃあ魂は何なのかと考えれば、理性や意識のない本性そのものなのだろうか。で、幽体になって初めて意志という指向性を持つようになる、と。冨樫さんにとっての「こころ」の定義が不明だからこれ以上の言及は無理か。

 チビ幽助が可愛いなーっ格好良いなーっ!(泣) 意地っ張りなのね、大事な人の苦しそうな貌なんて見たくないのね、うわーん(涙)。螢子ちゃんはひとつのことに一所懸命になってるときに他に目がいかない不器用な可愛い子だから、その分幽助が気を回してたらあんなクールな子になったのかしら幽助、えーん。

 この幼いときの回想と対比して、今の螢子の涙を見たときの幽助の表情がね、もうもう…! 螢子ちゃんに殺されるほどヤワじゃないって言葉、あまりにも核心突きすぎてて痛いよ幽助…!(泣)

 しかし幽助、成長してますな。「グシャグシャに喜んじゃって」って、アンタしっかり自分が生き返ることに2人が喜んでくれるって2話目にして自覚できるようになったのねーッ!(泣)

 ……泣きすぎですワタ死。

act3. 旅立ちの時!!

「オレ、必ず戻ってくるから。信じて……待っててくれよ」

 幽助がちゃんと生き返りたがってるところが物凄く新鮮(泣)。ここでまた幽助の頭の回転の速さが明るみに出る。「だれかの体を借りて」話すという言葉だけで「だれでもいいのか」と乗り移る相手を尋ねているあたり。霊界の法則にそろそろ色々と気付いている。

 しかしその相手が桑原君ってのは確かに意外だが、桑原君の舎弟? は何人か知っていた彼の霊感の話を幽助が知らなかったというのはリアル。学校の先生には、桑原君は「浦飯の付き合ってた連中」ということになっているが、実際はこのとき、彼等の間には本当に喧嘩しかなかったわけだ。そして何度でも喧嘩していたからこそ、桑原君は幽助の印象に残っているわけだ。のちに幽助は桑原をしてカツアゲや万引きは絶対にしないと宣うているわけだが、つまりその手の「ロクなことしねー」ときには絶対に桑原を誘わなかったということだ。人付き合いが面倒臭かったのか、その割には桑原のその手の行為が嫌いということを知っていたところを見ると、幽助は桑原君に結構気を遣っていたのかもしれない。そしてそういうことをしない「良い子」の桑原君だったからこそ「ウスラ野郎」で、友好関係を築こうとも思ってなかったのだろう。桑原君でさえ、幽助にとっては遠い世界の住人なわけだ。

 そして桑原君に乗り移った幽助に対する雪村家族の反応が興味深い。商店街の人間は軒並み幽助を超ワルとして倦厭しているが、雪村食堂の両親は幽助を非常にまともな人間として見ていることが窺い知れる。螢子の幼馴染みとして認め、可愛がっていることがわかる。そのような両親に育てられて螢子がああ育ったのか、素敵だ。

 しかしセクハラで螢子ちゃんに正体知れる幽助は相変わらずバカスケベガキですな。中2ともなればそろそろ女の子にこういうことしなくなるものだけど、逆に女の子としっかり猥談できるような男の子は既にゴンじゃないですが童貞じゃない可能性が高いですねぇ。……幽助だったらワタ死もうナニがあっても驚かない(何)。でもどう足掻いても螢子ちゃんとはプラトニックラブ。うわ、エロ幽助のプラトニック幽螢萌え!

 「必ず戻ってくるから」「信じて待っててくれ」なんて幽助の言葉ほど信用ならないものはないと思うが(オイ)、でも彼は約束はちゃんと守るんだよな。つまりそれだけ約束することが少ないということか。それでも螢子には約束するんだ、するんだ…!(泣) 約束したいのか、約束してあげたいのか、微妙なところだけれども、どちらにしろ螢子だけには約束するのだ、彼女を失いたくないと思っているのだ。

 ところで最後に桑原×螢子に萌えてしまったワタ死を許してください…ッ(誰に言ってるのよ)。

act4. 老犬と少年!!

「じゃーよ、けっとばしてでもちがう道行かせよーぜ! 耳かせ、あのよ……」

 適当に描いたしぃペの落書き線は低解像度で見ると悲惨なことがわかったので、少しばかり丁寧に描いてみましたが代わりに絵を似せることは諦めました(死)。

 冨樫さんっていじめられたことありそうだなぁと思った話。いやわたしもあるらしいので、それで蔑んだり偉いと思ったりどうこう言うわけではないのですが。ラシイってのが微妙ですが、イジメってのは本人気付かないと意味ナイので、あの…(黙)。先生「何か相談することはない?」わたし「は? 別にありませんが」先生「イジメ辛くないか?」わたし「…………はい???」。そーか、わたし周囲から見るとイジメられてたのか…! と驚いた当時。先生御迷惑お掛けしました、全く以てわたしにとっては何の問題もありません(爽笑顔)。鈍感すぎるのも大概にしたほうが良いとは今になると思うが、しかし鋭すぎるのもなぁ。

 クラスメイトにいじめられて反撃もできない正太に対し、やり返せと幽助はイライラを募らせているが、だったら学校中に超不良と呼ばれて恐れられて逃げられて利用されて、しかもそれに対し反論もせず流されていたおまえは何だったのだ、と。肉体的な暴力に関しては確かに幽助は反撃しただろうが、それは単に喧嘩に勝つということが彼のアイデンティティだったからだろう。実質的に幽助に対してのイジメに当たるだろう嫌悪と恐怖と嘲笑の視線、所謂不条理な噂には、幽助は何の抵抗も試みてはいないように見えたのだが、如何か。かと言って正太に自分を重ね合わせて幽助が自己嫌悪で正太に苛立ちを募らせていたのかといえば、そうでもないように見える。いじめではないがそれ以上に自分が周囲に疎まれていたことに、幽助は何の感傷も覚えていなかったのだろうか、つまりは気付いてもいなかったのだろうか、幽助。……えーと。でも彼も全く気付いてなかったというわけでもない、のちに生き返ってから「ゾンビ扱いは昔から」と言っているのだから。気付いてて傷付いててくれると嬉しいんだけどなぁ、気付いてもないってのはヒトとしてちょっとアレな感……(…自分駄目ージ。)。もはや気付けもしないほど日常になってしまってはいたが、深層では澱を溜め続けていた、が1番近いのかな。

 それでも、他人のそんな様子はイカンと思うわけだ。それでいじめっ子をとっちめるではなく、即ち本人が強くならなくては何の意味もないのだと考えるあたりが、とても幽助らしいと思った。強くなりたかったのは、幼い頃の幽助なのだろう、螢子のために風邪をおしてでも学校に行ったように。

 幽助が正太に身に付けてほしかったのは恐らく、いじめっこに打ち勝つ力ではなく、ひとりでも生きてゆける強さだったのではないかと思える。いじめっこよりも弱い正太のほうが死んだほうが良いと言った理由が「だってあの犬の命を引きのばすわけにはいかねーんだろ」。幽助にとっては、自分に攻撃してくる手があるのが当り前のことならば、そこで誰かの救いの手を期待するより、自分が強くならなければならないという思考だろう。それは幽助自身が強くなった理由だろうか。螢子ちゃんや温子さんでも、幽助にとってのジロにはなり得なかったということだろう。彼は彼女達に手を差し伸べるよりは、それを失うことを前提として、或いは初めから何も手に入れてなどいなかったと思って、自ら強くなる道を選んでここまで生きてきたのだ、強くなくては生きることもできなかったのだ。

 結局ジロは死に、正太も死への道を歩み始める。それを運命と称すのは簡単だが、幽助は蹴っ飛ばしてでも違う道をゆかせようと提案する。これは自らに鞭打ってでも運命めいた自分の生を切り開くことになる幽助の、周り中に倦厭され超不良と呼ばれ、後に魔族となり利用されてきた霊界に抹殺されそうになっても、ただ誰でもなく浦飯幽助として生きてきた幽助の、あらがいなのかもしれない。自分が望むでもなく置かれる、置かれていた環境を、彼は恨まない、恨む暇があったら強くなろうとしている。環境を変えようと動く螢子のような志向性ではなく、自らが変わろうとする志向性だ。螢子が西洋医学系なら、幽助は東洋医学系である。

 だから、幽助は嫌われ役になることを厭わないのだろう。誰かが成長する過程で、正太が強くなる過程で、幽助が憎まれ役となり正太に嫌われたとしても、幽助にとっての求める強さとは他人への依存を必要とする類のものではないから、幽助自身が正太に好かれるか嫌われるかは、幽助にとっても幽助の思う正太の強さにとっても、まるで無意味なことなのだ。正太は幽助の顔も正体も知らないままで、それを幽助は満足に思う。なんて傲慢な優しさだろう。

 そんな自分を、「もともと嫌われ者」と幽助は言う。好かれることを、ここまで求めないのか、この子は。ここでさらりと幽助を褒めて流されてるぼたんも自然でとても好き。ああだからわたしはぼたんや蔵馬を幽助のそばに置くのが好きなんだな、彼等が幽助を褒めるのはとても自然で幽助の負担にならないからだ。好きだと言っても幽助を苦しめないで済むと見えるからだ。彼等もまた、幽助に好かれることや、自分が幽助を好いていると彼に信じてもらうことを、必要とはしない人種に見えるからだ。……完結してるなぁ、或る意味カップリングになりようもないぞ。そんでもわたしがぼたんよりは蔵馬のほうを選んだのは、螢子ちゃんが女の子だったからだろうなぁ、きっと。幽助にとっての最も親しい人間が桑原君だったら幽ぼに走っていたかもしれん。いや実際雑誌掲載時は幽ぼ派だったわけなのだが。

 くそう幽助、ぼたんちゃんに顔近付けやがって、きっと彼女いーにおいしたんだろうなぁふわふわやーらかかったんだろうなぁチクショウ羨ましいぞ幽助!(笑)

 ところで気付いたら気になり始めたのが、正太のお父さん。姿は描かれてるのに、顔がちっとも出てこない。幽助んちも南野んちも母子家庭だし、飛影の家系はあれだし、桑原んちの父ちゃん登場は最後の最後だし、……何か父親、父性、或いは男性性に何かコンプレックス(複雑な、という意味の)ありそうですな、冨樫さん。まぁ権威主義は好きではなさそうだけど、強くなると言った息子に対し黙って微笑んだ父親の顔を描かない、というのは、どういう瑕なんだろうか。

act5. 一年目のクリスマス!!

「あそこでずっとすわってたら見れなかったんだぜ」

 これこれ! 大好きな話だーッ、当時マジに幽助×加奈(あ、完全版では名前出てこないのか、もしかして)でイケると信じてました。つーか雪菜ちゃんの出てこないこの時期本気で桑原×螢子プッシュだったもので、アマリモンの幽助はどーするかなーなどと失礼なこと考えてたことは口が裂けたら言えないワ(バリッ)

 ところでクリスマスには霊気が似合わないんですか。よぅわからん原理だ、パウロ教こそ肉体を蔑み霊魂を重んじたんじゃないのか(笑)。ついでに神様は本当に居るんですかぼたんちゃん。まぁ閻魔様も神様だけど、多神教と一神教は根本的に違う。キリスト様で言うところの神はただひとつの絶対神で万物の創造神で、絶対に他の神様と共存はしないんだけどなぁ。幽白に於ける神様の扱いにとても興味あるけど、まぁ良いや。

 肉体があるときから5時間6時間平気で人を待っていられてその間周囲を眺めて空想に浸れる加奈ちゃんは、今思うと幽助に似ている。幽助の場合は人を待つ時間に充てるではなく、自分ひとりで過ごす時間に充てる才能だが、どちらにしろヒトと関わる時間ではないのだ、それは。何時間でも閉塞した時間を持てる、その世界との隔絶に、待つという行為の理解はできなくても、幽助は共感を覚えたんじゃないだろうかと思わなくもない。……ウチらオタクにも共感してくれるかしら(オイ)。

 全く以てこの子は自身で表現していることと人に対して行うことが乖離しているのだ。とすれば考えられるのはひとつしかない。この子は自分が嫌いなのだ。生きるために、口さがない噂の中で生き抜くために、他人を無視して頭から追い出してひとりで生きるだけの強さは身に付けたけれども、それでもその他人、或いは世界に対する自らの拒絶は、彼にとって忌むべき性質であったということだ。

 『世界に一つだけの花』だったか、ナンバーワンでなくても良いからオンリーワン、といった歌があったと思うが、それはナンバーワンにもオンリーワンにもならざるを得ない「のではない」人々のための歌で、幽助の真逆にある心境を歌ったものなのだろうと思う。ナンバーワン或いはオンリーワン「にしかなれない」人は、ならばナンバーワンにもオンリーワンにもなりたいとは思うまい。世界に埋没する哀しみを知らぬ代わりに、世界に埋没できない哀しみを背負っているに違いあるまい。幽助は、それだ。

 社会と交わることのできない子供は、だからこそ加奈に彼女の世界であった男を忘れろと言い、だがそれでも世界に憧れ、だからこそ加奈に世界を見せたかったのではあるまいか。広い世界を。彼女を、彼を縛り付けないでいるかもしれないまだ見ぬ世界を。そう考えれば、幽助がのちに魔界への出立を決めたのは必然だったのだ。あの人間社会には、学校社会には幽助の居場所など、男の中の加奈の居場所と同じように、ありはしなかったのだから。あのとき幽助は、加奈にしたように、自分自身に広い世界を見せてやったのだ。

 少し先走りすぎです日月サン。ええと、そうそうこの話。幽助の女の子の扱いが実はとってもジェントルで手慣れてることが判明しました。やはり(何)。このために幽助と螢子という組み合わせの、少々奇異に映るまでの子供っぽい付き合い方が際立つんですが、これが意識して描かれたものだとしたら凄いな。昔のままでの付き合いしか、大人になった彼等もすることができないのだろうか。互いに変わったことに目を背けているのだろうか、背けざるを得ないカップルなのだろうか。……幽助は本当に、もう螢子と共に生き螢子と共に死すことはできないのだろうか。哀しい。

 ところで幽助はいつ幽体のままで人を脅かす方法を体得したんだろう。ぼたんは今のあんたにゃ教えないっつってんだし、自力で見付け出したとしか思えんな。やっぱ頭良いんだろうか、この子。莫迦なのに(笑)。

act6. 孤独の旅路!!

「大丈夫だよ、あのおじいさんだってだてに長く生きちゃいないさ」

 蔵馬さん初登場の巻。大嘘吐き。狐や狸は霊的に優れているということで、九尾の狐さんも出てはいますが、今回は狸さんの話です。動物の恩返し系の話になりますな。動物の恩返し系の話は大抵、人間が相手との約束を破り正体がばれたところで動物が山に帰る、といった話が典型ですが、この話は人間のほうが先に死んでしまい、そこを強調することで各キャラクタの特徴を描き出している。

 老人は信じない、自分を取り巻く人間の厚情を。仔狸は信じる、老人の優しい心を。ぼたんは信じる、老人の人生と経験を。幽助は信じない、老人の頑なに凝った孤独の溶解を。

 信じて、そして老人に心を開かせた狸を、幽助は「オレよりずっと偉い」と言う。ならば幽助にとって、信じることのできない自分は偉くない、ということになるのだろうか。幽助の信じていなかったものは何であろう。積み上げられた信念を持つ老人という人種か。失った大切なものに対する執着を捨てることか。積み重なった孤独という現象か。

 実に日本人好みの物語だとは思う。出逢い、禁忌、違反、離別と物語の類型で出来上がっている。しかしながらそれは狸を主人公とした場合の話である。狸と同じく現在人間にとって異類であるはずの、主人公であるはずの幽助は、だが老人を信じず関わろうともしないのである。狸に関わろうとしたのだって彼ではない、ぼたんのほうである。

 この頃、幽助は主人公と言うよりは狂言回しという位置付けなのだろう。のちに幽助は「霊体の状態でいろんな奴にあえたのもすげェ勉強になった」と言っているが、まさに「勉強期間」である。共同体の構成員でないところの子供がムラの外で集団での通過儀礼を行い、再びムラの構成員として内部に組み込まれる、所謂通過儀礼の乖離期の物語が、初期幽白の姿である。それはまさに「死と再生」である。彼はただ現象を「見守る」観客であり、現象を「外側から学ぶ」乖離期の青年であり、共同体の現象を「のちに再現せしめるべき」子供なのである。

 果して幽助は、生き返ってのち、即ちヒトとして共同体に再び組み込まれた際、本当に共同体幻想に溶け込めたのであろうか。確かに彼は言うようになる、「信じる」と。言われるようになる、「信じてくれた」と。だがその相手が、ヒトならざるモノ、飛影や蔵馬だったのには、一体どのような意味があるのか。非常に興味深いところである。どちらかと言えば、それをヒトではない相手に言わせてしまった、冨樫氏に対して。

 ところでわたし、この時点でかなり幽助×ぼたん派だったのですが、「大丈夫だよ、あのおじいさんだってだてに長く生きちゃいないさ」という彼女の笑みを見て、ああこのふたりが恋人同士になることは多分無理だな、と子供心に思ったものです。ぼたんは幽助を必要とはしないだろう。必要とされることも必要とはしないだろう。そう思った。だからこそ今でも幽ぼが好きというのも一面ではあるのだが。

 ぼたんの実年齢が幾つなのか不明だが、恐らくかなりの長寿だろう。彼女はあまりにも完結している。コエンマがぼたんをして「情に脆い」と言っているが、あれだけの数、死を目の当たりにして尚、情厚くいられるということは、逆に言えばそれだけ地盤がしっかりしているということの裏付けである。自我がしっかと確定されているが故に、その上で情をどれほど揺らそうとも、彼女という総体にとっては、大きな揺らぎとはならないのである。その点、蔵馬に似ているとも思うが、ぼたんが陽の固着であるならば、蔵馬は陰の固着になるのだろう。その上でふたりして、人間らしいとされるような厚情に性質を見せ掛けているものだから、ぼたんは非常に安定して見え、蔵馬は非常に不安定に見えるのだろう。

 ということで初めての幽助の出てこない絵。ぼたんラブ(うふ)。

act7. 約束!!

「…………」

 幽助君、桑原君をもしかしたら初めてまともに見据えたの巻。

 この時期、幽助にとって桑原は全く近しくも何ともない人間だったことが、すぐあとの話で証明されるのだが、とにかくも彼等は教師連中にそうと思われているほど、親しい間柄ではなかった。幽助は桑原のことを何も知らなかった。桑原も恐らく、幽助の強さと孤独をしか知らなかった。

 中学生でも特例でバイトできるのね、知らなかった。と言えるわたしはとても幸せに育ってきているのだろうし、少なくとも幽助も金に関しては何の心配もない生活をしていたわけだ。大久保のバイトのため、1週間喧嘩をしないと言った桑原をして口だけで無理と言った幽助は、金銭面で幸せに育った幽助が故に、幽助自身がそれを実行するのは無理という意味なのだろう。その点で言えば、桑原も条件は幽助とあまり変わらないと思われる。彼は高校に進学もしている。桑原も大久保の苦労を知らない、知ることはない、が、桑原が幽助と違う点は、恐らくその差異を想像で補える点だ。相手の立場になって考えることのできる優しさだ。知らなくとも、桑原は大久保のために莫迦のように好きな喧嘩も一切せず、徹夜で勉強を続けている。

 幽助は、その姿を見て初めて自覚的に桑原に興味を持ったのではないだろうか。仔狸に感じたのと同様、偉いと思ったのではなかろうか。この回、幽助はモノローグさえ使わずリーダを多用している。読者にすら見せないところで、桑原のことを考えている。幽助の認知していた姿とは別の様相を見せた、桑原という人格に対する認識のズレを修正している。

 多分、桑原も幽助と同様、喧嘩に勝つことがアイデンティティの一部だったのだと、幽助も気付いてはいただろう。桑原は言っている、「ヤツにあうまでタメ年にケンカで負けたことなかったんだ」と。幽助ほどの喧嘩莫迦ではなかったとしても、桑原もまた、喧嘩に勝つことを拠り所としていたことは確かなようである。その桑原をして喧嘩もなしに勉学に励ませた友情、それは幽助にはないものだ。

 「口だけ」「オレよりバカ」と言っていた相手。幽助は当初、桑原のことを多分に莫迦にしている。喧嘩に勝つことに拠り所を求めていながらも、根性だけで強さの伴わない実力。勝つことだけが生きる証なのだろう幽助にとって、桑原の弱さは存在意義がないことと同義だ。そう、幽助と全く同じものを求めていたのだったら確かに、桑原は桑原自身にとっても生きている価値などなかったかもしれないが、幽助は恐らくここで初めて確信したのだ。

 桑原が本当に自分とは別の道を往く生き物だと。

 誰かを守るための強さ。勝てなくとも守れれば良い、そんな姿勢は幽助は知らないだろう。そもそもが彼は守るべきものを持っていない。持っていたはずの幼い幽助は、長じるにつけ恐らく目的と手段を違えてしまった、忘れてしまった。彼が強くなりたかったのはきっと、父親に殴られる母親を守るためだったろうと推測されるが、温子の明るさはそれを引き摺りはしなかったし、彼の強くなりたいという願望は時間と共に宙に浮いてしまったのではなかろうか。手段であったはずの強さはそれ自体が目的となり、目的を持たない強さの具現、それが死ぬまでの幽助だった。

 もしかしたら幽助は、それを、その正体なき強さを求めるところの莫迦さ加減を、軽んじながらも桑原にも求めていたのかもしれないが、それは違うのだと、桑原の求めるところは違うのだと、諦めと共に初めて自分とは違う生き物としての桑原の人格を認めたのだろうと思う。あの驚愕の表情は、尊敬だろうと、そう思う。尊敬は、まず相手が自分とは別個に存在していることを認識しない限りは湧き出てこない。幽助はここで桑原に対して成長したのだ、桑原の見えないところで。

 だがそれでも、見えない相手に対し礼を言い、多分にのちにその相手が幽助だったのだと悟った桑原も、そうしてその人格の別離をして同調と言ったぼたんも、とても格好良いなぁと思った。

act8. 束の間の復活(前編)

「でもまだあいつあやまってない!」

 螢子ちゃんってホント莫迦で可愛いな真面目で格好良いなと思った話。「きっと今頃魂の方は体に戻るために一生懸命努力してるんだろうな」……ええ、貴女ならそうだったんでしょうけど。当の幽助は「ヒマだな〜」って、アンタ……。勉強はしてたかもしれませんが、努力とは程遠いところに居る主人公ですな。

 長い間身体と魂が離れていると、仮死状態に近い身体が死んじゃうそうです。魂魄一体思想ね。……じゃあ肉体のない霊界人は、だからホントにナニモンなのよ……。まぁそれはさておき、幽助は1日だけ身体に戻ります。

 幽助曰く「体はいいぜ、生きてるって実感すんな」……ええと。死んでる間に螢子ちゃんと話せたことは、つまり生きてる実感には繋がらなかったということですか? 「人と触れ合い対話することができる、生きてるっていいなぁ」って、死んでる間もちゃんと螢子ちゃんと一時的にとはいえ話せていたわけですが。ぼたんや加奈ちゃんとも当り前に話せていたわけですが。ホントに「生きてるのが良い」理由は「人と触れ合い対話できる」ことか幽助? 非常に嘘っぽい。或いは自分に対しても騙っている。身体を得て真っ先に行ったことがパチンコと競馬だのと、何処が他人との対話だ、何処が他人との触れ合いだ(いやまぁ台の選定にも駆け引きがあるらしいですが)。つまり幽助にとっての生きてる実感などと、決して人間との対話なんぞではないということの証明にはなるまいか。自覚があるかどうかは知らないが。

 さて一方の螢子ちゃん。おさげ螢子萌えーなんて言ってる場合じゃありません。なんつーかホントに……この子、可愛くてどうしようかと。莫迦で要領悪くて誇り高くてどうしようかと。わたしが男だったらこういう子に惚れるのは怖いなぁ、余程気合いを入れて矜持を保たないと、自分が惨めになってしまう。不正を許せない不器用さは桑原のものとは違い、この子の場合は友人がもう良いと言っても「不正はあってはならない」自分が生きるためのプライドなのだ。彼女の世界に「不条理はあってはならないもの」なのだ、たとえそのために痛い目に遭おうとも。

 そうしてまた、その不器用さこそが、幽助を決して偏見の目で見ない理由でもある。あまりにも曲がりない精神、汚れを許さない潔癖、或いは怖れを知らない子供? この時点で螢子が幽助を恋として好いていたかは微妙なところだが、それは汚れへの忌避に近い感情だったとは思う。学校社会を或る程度正義として受け入れていた子供達は、幽助をこそケガレとして忌避していただろうが、螢子は、それよりももっと純粋な位置で正義を抱えていた螢子は、幽助を忌避する詮無き構造、欺瞞をこそケガレと見倣し、(螢子から見て)それと戦っていた幽助を、その対極に置いて愛してはいただろう。幼馴染みであることとは無関係に。

 ところでこの螢子ちゃんをして冨樫さん、典型的と言ったそうですが……確かに若い子にありがちな無駄に過剰な高潔かもしれませんが、問題はそこではなく。冨樫さん、よく御自分のことを悪役だとか黒いだとかそっちの側に置きたがるが、寧ろこの螢子を典型と言えてしまうのなら冨樫氏自身、過激な潔癖を抱えているのだろうな。狷介なまでの完璧主義を少なくとも何処かには抱えるが故に、今H×Hの絵はあんなになってしまってもいるのだろう。可哀相に。

 この螢子に似た冨樫さんという観点で話を進めるならば、螢子×幽助が成り立っている以上、冨樫氏×幽助というカップリングも成り立つわけだ(それカップリングちゃうから!)。そうして当初、自らを黒いと言う冨樫氏が、幽助を高潔ならぬ自分の対極に置いて潔癖に愛おしんでいたのならば、後半の幽助は、冨樫氏が自分を愛するために自分の手許に引き寄せた幽助、という解釈もできるということだ。幽助も冨樫氏も大人になったということか。人間を食え、と多分言えてしまう冨樫さんは嘗てそんな己を許せなかったのかもしれないが、いつしかそれを肯定できるようになったのかもしれない。それは幽助も螢子も、また同様に。でもわたしは、そんな彼等のほうが、綺麗だとおもう。

act9. 束の間の復活(後編)

「あなたを助けてここまで運んだのはオレです」

 幽助の螢子に対する望みがあまりにもアレだと思った回。「助けにきたぜ!」「ああ幽助ありがとう、かっこいいわ世界一!」…………。そんなことを言われたいか幽助。アホか(思いッ切り素)。……まぁなんだ、ちゃんと螢子(他人)を守るべき対象として認識できてるのは幽助ちゃん偉いでちゅねー(……。)。

 幽助の想像で、下に転がってる人物に「悪者」と書かれているのが興味深い。冨樫さん、この頃は正邪を区別してたのかしら、単にノリという気もしないでもないが(笑)。

 意外と冷静に計算高い幽助がツボ。おたふく仮面の下に念の為ヒゲメガネまで付けるなんて余程冷静でないとできないだろう。螢子や温子と喋ったら死んでしまうとは確かに前回ぼたんに言われていたわけだが、あの鳥頭の幽助がしっかりとそれを憶えており、螢子の危機というのに焦ることなくそれを憶い出し、バレないで済む算段を考えている。のちに幽助は蔵馬の危機に瀕して試合中、会場の妖怪全員を敵に回しても爆拳に霊丸を放とうとしたわけだが、そのときなどより余程焦ってはいないということだ。未だ他人を大事にするということを感覚で理解はしていないということか。そうか、だから助けた螢子にかっこいいわ世界一なんて見られたいとも思えるはずだ。……別にだから幽蔵だなんて言うつもりはありません念の為(冷静?←阿呆)。寧ろ蔵馬のアレは多分初めて見せた幽助のそれが人間相手にではなかったことに哀しみすら覚える場面だ。

 ついでに物凄くツボなのが「もったいねーな、高いぞこの酒! 空ビンで殴れっつーの」。……ああ幽助、酒を大事にするアナタが大好きよ(何かが間違っているのんべの感覚)。……以前友人と3人で呑んでいたとき、ひとりが「後ろから付けてくるヤツが居たから食べてたアイス投げつけようかと思ったけど――」「「そんな(アイスが)勿体無い!!」」(二重放送)……などということがあったのを憶い出しました。ええ食べ物は大事にしましょう(貧乏性め)。

 下手すりゃ死ぬかもと思いながらも螢子を助けに来る桑原が好きだ。当時わたしだから桑原×螢子プッシュだったんだってば……ッ(黙)。しかし死んだら地獄で浦飯と喧嘩できるかもなって桑原が考えてるっつーことは、つまり螢子ちゃんは桑原君に抱きついて泣きじゃくってそのあと何にも説明しなかったということで、非常に萌えです、うへへー♪(死)

 そんなことはともかく、さてぼたんちゃんの台詞から引用です。「試練をうける者はその間、下界の親しい人間と霊的な交信をしてはいけない!」「あ、念を押しとくけど、おふくろさんや螢子ちゃんとはしゃべっちゃいけないよ! 霊界の掟はきびしいからね!」。……幽助さん、この回で桑原さんと極フツーに喋ってるんですけど。「しゃべっちゃいけない」という霊界の掟まで喋っちゃってるわけですけど。本当にこの頃、幽助にとって桑原は親しい人間ではなかったのだということが、そうして(人間の人生を或る程度把握している)霊界にもそのように認知されていたことが、こんなところで証明されている。人間界では桑原が、幽助の学校での最も? 親しい人間として認知されていたにもかかわらず、だ。それはイコール、幽助と人間社会のズレでもある。つまり幽助という人間の、社会からの隔絶の距離である。

 そうして幽助はと言えば、螢子でさえ自分と親しい人間であるとは彼自身が実は思っていないことまで、ここで露呈する。「あなたを助けてここまで運んだのはオレです。感謝しなさい。桑原」、そんな手紙を書いた、その文字で、その文で、螢子が全く疑いもしないと、手紙を書いた幽助の存在を考えもしないと、彼が思っているということが知れるのだ。わからいでか。ちょっと親しい人間ならばわかってくれると、信じられなくても信じたくなるのが一般的な人間ではないのか。あの子は本当に、螢子が自分のことをわかっていてくれると、欠片も考えたことがないのかもしれない。

 「かっこいいわ世界一」。そんなことは言わなくともキスマークを感謝の印として落とした螢子は、だが幽助を好きになればなるほどそんなことは言えなくなるだろうし、寧ろ憎悪に近く哀しむようになるのではないかと、思えて仕方がない、のだ。

act10. 禁断の遊び!!

「お兄ちゃんだれ?」

 「正太、元気でやってっかな」……幽助、ちゃんと記憶力あったのねー!(……日月サン。)

 怨霊さやかに取り憑かれて毎夜魂の体力を削ってゆく正太に対し、ぼたんはこう言っている。「それをとめてやるのがあんた達同じ世界にいる人間の役目なのさ。入っちゃいけない領域に誘われてる人をとめてやるのはね」。この後の少女2人の話でもそうだったが、つまり人間が人間(怨霊)の世界に引き摺り込まれるに際して、ぼたんは何ら動かないということが知れる。動けないからこその詭弁か、単に動かない決まり事なのか、どちらにしろこのとき幽助が居なかったらそのまま正太は取り殺されていたということであり、だからこそ霊界は霊界探偵を人間界に必要ともしたのだろうと思われる。ぼたんは、幽助に手を貸すことならば何ら禁忌とはしてはいないのだ。霊界人が人間界に関わるには、少なくとも生きている人間の意志を介在とする必要があるわけだ。

 ところでこの話、今まで気付かなかったんですが、色々とワシには都合の悪いというか理解できない単語が出てきます。「あのままじゃさやかってコに魂ごと幽界にひきずりこまれちゃうよ」「そんな状態で霊界に入ろうとしたら迷ったすえに行きつく果ては暗黒界さ」……幽界と暗黒界ってあの、一体……? 人間界、魔界、霊界の三界じゃないんかい;;; 多分新興仏教系の思想だろうなぁ、ということで知らなかったので調べてみました。

 幽界は神智学ではアストラル界と呼ばれる相で、死後すぐに霊が辿り着く場所。魂の禊ぎの場で、現世での罪、汚れ、執着を清めてゆき、徐々に幽界、霊界、神界と霊格を上げてゆく。想念すべてが無に帰すべき場所。四次元の世界。……こっちはやっぱり新興仏教系思想のやうDEATH……。

 暗黒界……こ、これは西洋ファンタジィ系の思想かな;;; 混沌系の神に属する精霊の棲まう場所、彼等は妖鬼、妖魔などと呼ばれる。或いは悪魔の棲まう場所。或いは天照大御神の瑞動前の状態。……どうも宗教ではなくゲームやジュブナイル向けの言葉、かな……。

 ……勘弁してください(理解できなかったラシイ)。せめてどの思想体系で思考して良いかの指針くらいはほしかっ……(黙)。

 それはさておき、「きらいでけっこう」「気持ちはわかるけど」、か。気持ちを汲めても嫌われても、為さねばならないと一旦決めたらテコでも動かないで進むことのできるタイプか。ついでに「初めてケンカに負けた」か。さやかちゃんがもう力を使えないとなると途端に強気、か。……もう今更書く気もしないほどやはり幽助アレなんですか、そこがアイデンティティですか。

 ところで「こっちで友達と遊んだ記憶がねーなんて淋しいだろ」って、幽助にそんな時間あったのかな……? ダメマツ君とかだろうか。それとも螢子ちゃんだろうか。遊んだ記憶のないのが淋しい、という感覚はわかるのか、ふーん。ならば彼にとって学校のいけ好かない連中も、決して全く遊びに値しない相手ではなかったということになるまいか。遊びたくとも遊べなかったのだろうか、自分の意志で学校社会から離れていたわけではないのだろう。ならば彼をあそこまで学校社会と乖離させていたものの正体は、彼自身の意志でなかったのだとしたら、一体何であったのだろう。

 どうでも良いですが最後に喜多嶋さんに似た髪型の「しおり(志緒里)」ちゃんが出てきます。……冨樫さん、あの髪型はまぁ当時流行っていたものとして、もしかして「しおり」って名前好きですか。南野君のお母さんも志保利さんなのです。そしてきっと青山さんは「しずか」さん好き(どうでも良い)。

 もっとどうでも良いちゃあ良いことなんですが、「けっこー女好きだ、あいつ」「するどい」……霊界ってそこまで人間の人生やっぱり把握してるんですか、い、厭すぎ;;;