飛影に限ったことではないが、妖怪というものはおしなべて感覚を思考化する作業をあまり行っていないように見える。別の言い方をするならばそれは、おのおの個で生活をしていて社会を形成しない種族であるところの生き物が妖怪である、ということである。
それは幽助の形態と良く似ている。
食欲、性欲、好悪、快不快などはあたかも生理的な本能のように捉えられることが多いが、仮にそれが真実だったとしても、その外質的な様相が文化によって形成されることは言うまでもない。日本社会で育てられた一般的日本人が、ゴキブリを見て旨そうと食欲を催すか? 首長族の超美人を見て欲情するか? 答えは否である。
妖怪は、土地の極端な広大さ、容姿や能力の多大なる差異、生活と戦闘が近しい事情、などから多分に文化らしい文化を持たない(氷女のムラ社会が特殊な例とされているところからも恐らく)。持っているとしたらそれは、「力こそすべて」という戦闘能力至上主義であり、そのイデオロギはソサエティの形成を促さない方向に働く類のものだ。
飛影が胎内で既にして言語を理解していたことから、言語による思考の制限は少なくとも行われているだろうが、あまりにも早いその言語の習得の可能性は、逆に種族間の言語による文化差異の少なさを示している。社会性のなさ。嗜好の多様性。目的の無意化。存在意義の無意味性と自由意思の可能性(痴皇という社会に規定されていた躯が目指したのはここらあたりかな)。すぐ目の前にある目的にだけ邁進する狭視的な刹那主義(黄泉言うところの昔の黄泉が典型的か)。
魔族となる前から、その(幽助の目から見れば飛影という存在に主に表出していた)妖怪の形態は、幽助に馴染み深いものだったろうことは想像に難くない。あの社会不適合者の孤独なこどもにとっては。
(尤もその妖怪の形態も、人間との交わりによって変わってゆくことだろうし、変わっている最中だろうし、実際是流の形態をして既に蔵馬は時代の流れを感じていた←ジジイだよなぁ…。)
だから、幽助にとっては偶然にも、飛影にとっては感覚に引きずられて、両者歩み寄る形で互いが変わっていった飛影との関係は、幽助にとっては物凄く楽な関係だろうな、とふと思った。
が、楽でシンプルであろうことから、逆にわたしとしては飛幽を書くことはないだろうとも思ったので取り敢えずここで。