実のところ、霊界人という種族がわたしにとって1番正体が知れない。理解できない。何のために彼等は幽体の状態を維持しているのだろう。
状態としては、人間や妖怪の肉体というものがまず存在し、そこから幽体が抜け、更に魂となるらしい。そうして霊界に存在するためには、肉体というものを捨て、幽体(或いは幽体に含まれる魂)の状態でないとならないらしい。死は一応肉体の死を指すことが多く、霊体となったのちは通常地獄か天国にゆき再生を待ち、その他、魂の消滅を魂の死と呼ぶ場合もある。
この場合の幽体或いは魂とは何を指すのだろうか。思考そのものというわけでもあるまい。
人間の思考は(脳髄など含め)頭脳に集約するとされる。これは妖怪も同様らしく、飛影曰く、ヒトモドキに寄生され不死人となった妖怪を殺すには、脳を潰さなければ駄目だということであった。ならば肉体を持つ時点に於いての思考、即ち人格は、人間にしろ妖怪にしろ頭脳にあると規定される。
だがこれは霊界人には、つまり霊体には当て嵌まらない。脳味噌という実体そのものが存在しないためである。しかし彼等には思考、人格が存在する。
ぼたん(と幻海)によると、魂は幽体に守られているらしい。それを、頭脳を肉体が守っているのと同様の状態と考えられるならば、霊体にとって人格を有しているのは魂ということになり、引いては魂/人格の維持のために幽体が存在することになる。
とすれば、魂を海藤に盗られていた3人は確かに手も足も出ない無防備な状態ではあったが、これは「タブーを犯して海藤に盗まれたため」というよりは「無防備な魂であったが故に海藤の手に落ちた」と考えたほうが自然である。このことは海藤をして「南野が魂だけを持ち帰ったのか」という思考からもわかる(詰まる所、海藤の能力は単にタブーテリトリィの生成だけで、タブーを犯した生物は能力者自身も例外なく魂が抜け出るだけ、その魂は海藤の言のとおりテリトリィ外に持ち出せる。例外処理として海藤自身の魂が抜けた場合、他の能力者のテリトリィと同様に、テリトリィの解除とタブー発言者の魂の返還が為される)。
人格を有した魂は、それ単体で思考能力は持っているが、幽体としての能力も肉体としての能力も持たず、人格を守る術がないということになる。海藤の言葉で言うならば「鍛えようのない魂」である。
さて、この場合の幽体による魂の保護は、何を指すのか。物理的な(霊力的な)対外用の戦闘能力に於いても、魂の有する人格に於いても、霊体及び肉体がどれほどの意味を持つのか。
肉体の能力は霊体の能力を含み、霊体の能力は魂の能力を含む。そこに再帰はない。
それを魂有するところの人格に於ける霊体と肉体に適用すると、魂の人格は霊体に継承され、霊体の人格は肉体に継承される。ところが、各々の状態での人格は同一ではないとコエンマは言っている。
幽助の莫迦さ加減をしてコエンマは、肉体のない状態で幽助の善悪なる資質を判断しようとしても無理だと言っていた。即ち、霊体から肉体に相がシフトした際、人格に加算される何かが存在するということである。
つまり霊体にとっての肉体は、ソフトを実現するハードというだけではないということになる。同時にまた、魂にとっての幽体も、ソフトを実現するためだけのハードというわけでもないだろう。
それが何かという手掛かりは、少なくともわたしには全く掴めなかった。但し、素直に逆に考えてゆけば、肉体の有する人格より霊体の有する人格、そして幽体の有する人格より魂の有する人格には、何らかの脱漏が存在する、ということになる。
人間界バージョンの、即ち肉体を有したコエンマやぼたんが霊体の際に比べて、何がプラスされたかということは、わたしにはわからない。無論逆に、霊体となった幽助が肉体を有していた時分より、何がマイナスされていたかということもわからない。
目に見えるような差異ではないのだろうとしか言えない。だが少なくとも、コエンマがそれを重視したことは確かだ。それが故に彼は霊体としての幽助を肉体に戻し、彼の資質を見極めようとした。
そうして、それを重視ながらも、霊界人は肉体を得ないままなのだ。人格のために何某かを得られるはずの肉体を放棄しながらも、霊界に留まらなければならない理由が霊界人には存在するということである。
コエンマやぼたんならまだ理解できるのだ。使命、仕事が存在する。だがそのイメージは、人間界は言うに及ばず魔界までをも侵略しようとしていた多数の霊界人のイメージにはそぐわない。
蔵馬の言葉を借りるならば、霊界人とて魂の死を恐れている。それは人格の消滅に恐怖することと同義である。それを免れるためには、霊界人は肉体を纏うべきであるのに、彼等はそれをしていない。
理解不能である。霊界人の誇りとやらであろうか。
プライドとやらだったら理解不能のままで済ませるが、もしそうではないと考えた場合、人格の欠損を補ってあまりあるメリットが、幽体である状態には存在するということになる。
ここからは完全に想像である。というより、一般的な(シャーマニズム的な)カミ(神)の概念から、幽体である状態のメリットを推測してみる。
ここでお出で頂くのが蔵馬さんである。妖狐を所謂一般的な妖怪と考えず、非人称的意識場として捉えた場合の話をする。
シャーマニックなカミとは、一神論として練られたパウロ教(あれをわたしはキリスト教とはあまり呼びたくない…)的な創造神とは別物である。日本に於けるカミとは、日本語に於ける「私」という主語に近い。カミの意識と交感する、所謂ヌミノーゼを感じるところの人称的意識場としての「私」である。「私」という「場」にカミが降りることは「私」とカミとの同一化現象である。「私」はカミを生起し、カミに「私」が生起されるのである。そのとき時はなくその「場」は「私」であり、カミが「私」であるところのカミである(比べて一神教的創造神は、神秘体験に於いて「I」の外に存在するものとして感得される。即ち「絶対的他者」としての神である)。
即ちカミとは、ミクロな相としてのヒトの、上位概念としてのマクロな相である。
さて、このようなカミの概念を有する民族にとって、妖狐とはどのような存在に当たるか。よく稲荷神や荼吉尼天を狐と思っている人が居るが、そうではない。
狐とはこの場合、カミという相にアクセスするためのキィとしての場である。カミの眷属などと呼ばれたりもする。神使である。実体が伴うとアクセス者に認められた場合は動物霊とされることもあるが、基本的には実体(肉体/幽体?/魂?/人格)を有さない非人称的意識場である。妖狐としての天狐、地狐などの霊格は、ただカミとのシンクロの度合い、情報の正しさ、即ち神託の適切さによってアクセス者により認識されるものである。
この人格を持たぬ、交感の場としての御遣いをヒトが狐の姿と見る理由については、動物の狐の生態やら菩薩の定型やらに関係してくるのだが、ここでは割愛する(もし蔵馬さんがこれを踏まえていたなら、あのキャラクタのキャパシティの異常な大きさというか人格のゆらぎも、物凄く納得できてしまうのだけれども、さて)。
兎にも角にも、妖狐はそもそも人格を持たない存在である。存在すらしていないと言っても良い。木憑寝、そうして蔵馬の能力からもし理論を組み立てるならば、植物(農業神)という広大なネットワークの連接点としての存在が妖狐である。そうして何処からもアクセス可能でありながらも、実はリンクによってネットワークは情報の偏頗を許容する。それをしてカミの性質、カミは人格を持つと言うならば、妖狐にとっての人格もそれである。それはまぁ、人間社会のメンバとしてのヒトも同様かもしれない。
さて、この連接部としての妖狐が肉体を持つことの意味が、魂が幽体を有する意味、そうして幽体が肉体を有する意味にも近いとわたしは思うのだ。
つまりは、ネットワークへのアクセスの困難さがもたらす個の形成、ネックワークを狭めることで得られる場への固定、それこそが実体/下位の相へと移行する意味である。善にしろ悪にしろ、肉体が幽体の資質を固着させることは、まさにコエンマが指摘していたとおりではないか。
ネットワークは広大になればなるほど、情報量が増えれば増えるほど、善からも悪からも遠ざかる。それは個性の消失とも言われる。つまり、霊体から肉体に相がシフトした際、人格に加算される何か、とは、固着される自我ではなかろうか。ヒトが小さなムラ社会で人として安定を得るのと似ているかもしれない。すべての情報を受け入れるだけのキャパシティを有した赤ん坊が、環境に与えられる情報の偏りによって固定の能力に特化した大人となるのに似ているかもしれない。それは莫迦になるのと同義とも言える。メリットとデメリットは表裏一体だ。
逆に言えば肉体を持たぬ相で居たほうが、ネットワークは広大で在るのだ。これは個の欠損ないし欠損というよりは拡散というデメリットと考えることもできるが、もしこれをメリットと考えるならば、霊界人はカミとしての様相を或る程度保ちつつ、人格を或る程度保つために幽体を有していると考えれば納得がゆく。
もしかしたら逆に妖怪は、人間より更にネットワークが狭いのかもしれない。そういえば飛影にしろ雷禅にしろ、意識は至ってシンプルだ。複雑さを許容するよりは死を選ぶ。黄泉は蔵馬さんへの愛故に近付こうとしたとしか思えんな(オイ)。
で、そんなシンプルな彼等も、幽体となったら何か意識に変化はあるんだろうか。結局わからん。妖怪/人間が幽体になったときと霊界人の差って、結局は社会性に縛られているような気がする。もし文化までをもミームとして捉えるならば、妖怪も人間も霊界人も、本能から逃れられない、逃れていない生き物に変わりはない。
まぁそんなことは、それこそ幽助ではないが、人間界と大差ないということがわかっただけで充分である。興味深いのはやはり、「魂」という人格の座、憑代が作品によって用意されていることだろう。この魂という訳のわからない代物が存在することが外部的に認識できるが故に、「個」の同一性を完全に叫べるという点である。肉体を持つ生物としての一人格を自らも持たない霊界人が、魂をして個を主張するだろう点である。
幽白の作品世界ではない、我々の世界では、仏教思想を持ち出すまでもなく、科学的な観点からも自己の同一性の確約など誰にもできない。生物学的に見れば、人間の細胞は日々変化し続けて生まれたときとは大きく異なったものになっていることは見れば一目瞭然であるし、記憶の問題から見れば、この一字を発しただけでも、発する前のわたしと発したあとのわたしは別人である。ザ・フライで転送される前の男と転送されたあとの男は同一人物か? どこでもドアの向こうで再生される自分は、こちら側で消去される自分と本当に同一か? その程度のものである。もし人情的に言ったとしても、ヒトは双子に同一性を唱えれば人格の尊重を主張するし、クローンの別人性を唱えればクローンであることのアイデンティティの不安定性を主張する、その程度の自己同一性しか、我々は持ち得ない(からこそ躍起になっているのかもしれないが)。
だが魂のみが自己を有するというのならば、どれほど外質が変化しようとも、どれほど人格が変質しようとも、「その魂を有し続ける限り同一人物」である。だからこその転生思想だろう。その魂を入れてやれば鎧でさえもその人物……ってどっかにあったなそんな漫画。まぁ良い。
問題は、魂までもが複製可能になった場合、である。この場合、魂の自己同一性は何処に置かれるのか。或いはドク・ベク氏のように魂が融合した場合、「彼等」として認めるのか。或いは胎内で双子が片方を取り込んでしまう状態のように魂が融合した場合でも「彼等」と認めるのか。もっと言えば、仙水のように成長後人格の多重性が認められた場合も「彼」ひとりとするのか。
ここでも蔵馬は非常に興味深い環境を提供してくれている。妖狐蔵馬と南野秀一の、魂は果して如何様に存在しているのか。蔵馬が秀一の魂を追い出して受精卵に収まった、というのならば(この問題としては)何ら問題はない。だがそうでなかった場合。
蔵馬が幽体までも秀一であることは、幽体離脱の際に既に確認済である。仮に南野秀一の魂が既に存在しなかったとしても、妖狐という殻に守られる蔵馬の魂と、秀一という殻に守られる蔵馬という魂は、同一ではあっても果して彼自身が同一性を主張するか?(蔵馬は、妖狐のときは妖狐の自分で居たいと思い、秀一のときは人間の自分で居たいと思うそうだ) 更に本当に南野秀一の魂とも融合しているとなるならば、人間南野秀一の肉体の死後、霊界は南野秀一の魂を、果して蔵馬の現世での行動抜きに裁定できるのか? 或いは赤ん坊にさえなっていない秀一の魂が蔵馬の魂に影響を与え得るのか?
(もっと怖い考え方は、蔵馬には果して魂が存在するのか? という……。妖怪としての蔵馬、人間としての蔵馬には存在しても、総体としての蔵馬にはなかったらどうしよう、ぶるぶる)
興味は尽きない。全く以て色々な意味で蔵馬という存在は、異端で曖昧である。様々な事象を含み、いずれかのレベルの集合にすべてが含まれるということがない。どちらにしろ彼はそのように存在してしまっている、ということがすべてであるから、その彼をどのように周囲が認知するか、に興味は傾けるべきなのだろう。1つの肉体で1人格、と看做すことの多いこの世の人間(妖怪)ならば話は単純かもしれないが、霊界人が蔵馬+α(或いは−α)をどのように処理するのか、非常に見物である。そのとき、蔵馬の感じるところの蔵馬と、霊界の感じるところの蔵馬は、果して同一か?
クオリアは何がもたらすのか、裁きの役目を負う霊界人ならば、答えを出せるのだろうか。