赤と紫の花の地母神

 ヨハネの黙示録を読む。

 ギリシャ神話が地母神(土地神)を歴史の闇に葬ろうとしたことは結構有名だが、ヨハネの黙示録でも結構明ら様に地母神神話が語られている。マリア(元々は彼女も異教の地母神)信仰に対する初期の弾圧を見ればパウロ教が女権制度を忌み嫌っていたことは明らかだが、それでここでは大っぴらに描かれているとは予想外だった。

 十七章「大淫婦が裁かれる」を抜粋してみよう。

 さて、この女とはバビロンの象徴、或いは当時のローマ教会の象徴だとされているらしいが、なかなかどうして。

 娼婦とはパウロ教で卑しまれるものであるが、地母神神話では、娼婦とは神殿に住まう巫女であり、また女神そのものである。

 母女神の知恵(media)、即ち産む性としての生産の知恵を、交わることで男に教える、それが娼婦の本来の姿である。「さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民」とは、父権社会以前の言葉で言うならば「たったひとつの生産をも知らぬ無知なる男」である。「水」、即ち月経(生産)の上に彼女が乗るのはその象徴である。彼女達女神は当然のことながら神の力(生産)の面で見ると「母」である。

 そんな彼女は「紫と赤の衣を着て」いる。紫と赤とは、母女神に捧げられる生贄(ヒーロー)の血の象徴であり、聖書では月経を示すflowerと同義である。また月経は葡萄酒であるとも教会自身が主張していた。生産力を持たぬ男性(教会)が生産(月経)に畏怖し、手に入れようとするのは当然である(「この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった」)。

 この女神に捧げられるhusband、即ち王なる夫であるところのヒーロー、英雄のまたの名を、油を塗られたもの(キリスト)と言う。キリストとは処女なる母女神が跨り懐妊するための紫と赤の花輪を掛けられた石像、即ち母女神に捧げられる男根を意味する。油は女神が石像に跨りやすくするための潤滑油である。

 その英雄は前王の息子と呼ばれる(オイディプスとライオスの神話が有名。本来の物語では、彼等は血の繋がる親子ではなく、王権移行の物語である)。女神の夫である前王を殺して女神を妻とし、地上の王となるからである。つまり、王は例外なく次代の王に殺される、これが女神の生贄、即ちhero(女神ヘラに捧げられるという意味)である。だからこそ「ベタニアで香油を注がれ」たイエスは「葬」られることになるのである。イエスはまさしくキリストであり、ヒーローである。だから本来、原始キリスト教は現在のパウロ教の教義から言えば異端である。

 男が王位に就くためには、女神の体現である女王、聖娼婦と結婚しなければならなかった。それを聖婚(hieros gamos)と言うが、この聖王交代には常に前王の死(供犠の死)が伴っており、新たなる王は新しい肉体を伴った前王そのものであり、また前王の息子であるとされる(「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」「彼らは心をひとつにしている」)。復活も滅亡も、聖王というしきたりの中では同義である。この獣はアクタイオン(角のある神に扮したアルテミスに捧げられる聖王。起源は紀元前2万年まで遡る)であるのだ。

 やがて男性社会が母権制度を駆逐していったことは今更言うまでもない(「あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう」)。

 これらがすべて「見て」語られている(「あなたの見た」)ということも重要である。目を潰されるということは去勢されることの隠喩である。即ち、去勢されていない、つまり女神神話の世界観に組み込まれていない男性の視点で描かれた物語ということを表している(母系社会で実際に男性が去勢されていたという意味ではない)。

 こうして見てゆくと、ヨハネの黙示録は歴史書の意味合いが強いだろう。この調子で読み進めるならば、かの有名なバビロンの塔は女に(パウロ教にとっては度々あってはならない)無原罪の御宿りをさせてしまう男根像の象徴か、或いは女性の性的快感の象徴とされたクリトリスの象徴かもしれない。

 パウロ教は神の名の下に、女達の陰茎を壊してきた。魔女裁判で、女性は陰茎の有無で魔女であるか否かの判断をされた。そんなものを持っている女性は例外なく魔女であるということで、幼い少女までもがそれを切り取られた。

 バビロンがもし本当にその象徴なのだとしたら(少なくともこの大淫婦がバビロンであることは明白)、それは男性社会にとって当然切り崩して然るべきのものであった。だがキリスト教はそのような事実をずっと隠蔽してきたと思っていたのだが……こんなところに書いてあるとは、というのがわたしの驚愕である。

 彼等は知らないのだろうか。一神教としてのキリスト教が崇める神、ヤハウェという言葉の女性形であるところのヤヒという単語が、地上に最初に月経をもたらした大娼婦の名であることを。

 日本で言うところの初期神道と仏教の関係が、女神神話とパウロ教の関係にあたるのかしらん。信仰よりも神話は民族の記憶に焼きつく。どれほど糊塗しようとも消えることはないのかもしれない。

 ……いやだからあの紫の髪と赤の制服の蔵馬がどうとか言うのはおかしいのだけれども。

 冨樫さんが何処まで宗教社会学に通じてらっしゃるか知らないが、マリアその他地母神と妖狐が非常に似た形態を持っていることは確かである。豊饒神、植物神、水の守り神。反面、破壊神でもあり再生神でもある、生産の神。教会の敵、狩猟民族の敵、父権社会の敵。

 「いくつもの顔を持つ」、ねぇ……。考えられる人間界での名をもし挙げるとしたら、神道、修験道に於いては稲荷神、飯縄権現、インド神話に於いてはダーキニー、後期仏教に於いては荼枳尼天、摩多羅神、弁財天、文殊菩薩、ギリシャ神話に於いてはメデューサ、アフロディテ、デメテル、ペルセフォネ、キリスト教に於いてはマリア、リリス、ブードゥー教に於いてはダンバラーウェイド、あたりか? 社会に取り込まれて地母神の原形を留めていないものも多いが。

 いやだからこれ以上蔵馬さんをヒトとしてアレな人外にするのはどうよワタ死。